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2014年3月2日 高額学費だけではない大学教育に対する攻撃 [雑誌経済]

 久しぶりの投稿です。最近はFaceBookが中心になってしまいましたので。ですがFBでは友達の投稿に「いいね」するだけの日々です。またFBでも「ノート」の機能があり、まとまった意見をかけるのです。でもせっかくブログを開設しているのですから、こちらに書くことにしました。

 新日本出版社発行の雑誌「経済」からの紹介。巻末に近い「情報&交流」欄の記事です。タイトルは「経済学分野の参照基準」問題ー7つの経済学会が反対表明です。以下引用します。

 08年12月、中央教育審議会が「学士力」の向上をうたった「学士課程提言」を行なった。大学の授与する学位には一定の「基準」(質保証)が必要というもので、大学教育の内容に国が関与する方向に「大きく一歩踏み出したもの」と言われている。
 08年5月、日本学術会議に「大学教育の分野別質保証の在り方に関する審議について」を依頼。日本学術会議は10年7月、回答「大学教育の分野別質保証の在り方について」をとりまとめ、学術会議が分野別の教育課程編成上の参照基準を策定することを提案した。その原案は?

 13年11月、日本学術会議の「経済学委員会・経済学分野の参照基準検討分科会」は、「経済学分野の参照基準(原案)」を公表した。
 この「原案」では、いわゆる近代経済学の「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」(および統計学)を、基礎科目とすることがうたわれている。・・・・

 原案の考え方は、「歴史・制度・思想などは副次的要因にすぎないという新古典派的な経済学観が自明なものとして想定され」(「全国教員署名」の呼び掛け)、「ミクロ経済学」「マクロ経済学」という特定の経済学をいわば官許の経済学とし、18世紀以来の伝統的な政治経済学(マルクス経済学も含む)は排除するというものといえる。

 これでは、大学における経済学教育は、基礎・応用科目のカリキュラムから学習方法、スタッフにいたるまで、ミクロ・マクロの近代経済学が基本ということになりかねない。・・・・ -引用終わり

 ところで今までの「経済学」の流れは次のようです。

 ホッブズ、ペティ、ロックに始まりスミス、ケネー、リカードーで完成される古典派経済学、これを科学的な探求と評価したマルクスがさらに発展させ「資本論」を完成させました。さらにレーニンはその「帝国主義論」で資本論での解明を発展させました。リカードーからはケンブリッジ学派が誕生し、ミル、マーシャル、ピグーなどがおります。

 またマルサス、セーからはケインズ、のちのポスト・ケインジアンに引き継がれます。もっともケインズはセーの「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セーの法則」を否定しましたが。

 新古典派といわれるのはジェボンズ、ワルラス、メンガーの「限界革命」に始まり、パレート、ベーム・バベルク、など。そしてハイエク、フリードマンなどの新自由主義に至りました。(以上は平野喜一郎さんの「資本論を学ぶ人のために」より)

 マルクスは他の経済学について次のように述べています。(資本論第一巻第一編第一章第四節の注32)
 「私が古典派経済学と言うのは、ブルジョア的生産諸関係の内的連関を探求するW・ペティ依頼のすべての経済学をさし、これにたいして俗流経済学と言うのは、外見上の連関のなかだけをうろつき回り、いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によってとうの昔に与えられた材料を絶えずあらためて反芻し、それ以外には、自分たち自身の最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている。」

 これを読むと、昨年6月ごろに放送されたNHKの日曜討論を思い出します。華々しく登場した「アベノミクス」とその効果を宣伝しようと、竹中平蔵や金融機関研究所のエコノミストが出席していましたが、根拠不十分な予測と同時に庶民にとってどうなのか、などはお構いなしの議論(?)で、殆ど視聴者には理解不能な発言でした。司会者までもが「理論的(?)なお話ですね」と言う始末。先のマルクスのいう「俗流経済学」の体すらなしていないものでした。

 私はマルクス経済学だけを教えろとは言いません。むしろさまざまな学派を選択出来ること、その相互の交流を望みます。私自身、他の古典派経済学者を読むことによってマルクスをより深く理解出来ると思っています。大学での教育は、経済学に限らず、その後の長い研究の出発点にすぎないものであり、経済学にしても他の分野にしても、4年間で学べるのは研究の方法でしかないと思います。今回の中央教育審議会の動きは学問研究と学生を狭い枠に嵌め、何か短期的な成果を出せるかどうかで学問を評価することであり、断じて認めるわけにはいきません。

 意見、要望書を出した経済学会は次の通り
 経済理論学会、進化経済学会、経済教育学会、基礎経済科学研究所、社会経済史学会、経済学史学会、日本フェミニスト経済学会 それぞれのHPを参照して下さい。

 こうした動き以前に東京都立大学、現首都大学ではマルクス経済学者の排除が石原都知事時代から進んでいる、ということを知りました。許せないことですが、先に書いたように大学教育は研究方法を学ぶ場と理解すれば、働きながらでも学ぶ覚悟が必要でしょう。


9月21日 近況 [日常]

 今日、amazonで注文したフィドルの肩当てが届きました。古い肩当てのフィドル本体に引っ掛ける部分のゴムが劣化したので、新しい物が欲しかったのです。肩当てを使わないとフィドルが安定せず、弾くのが困難です。これで解決かと思いましたが、しばらく使わないで弾いてきたせいか、違和感があります。
 また、演奏中に音程の違和感を感じ、耳が悪くなったか、と思いましたが、駒が微妙に斜めになっていて、このため高音弦を弾くときと低音弦を弾くときの指の間隔が違った為と重い、調整しました。一度専門家に調整して貰う必要がありそうです。

 明日は、資本論講座の日です。第一部第13章の「機械設備と大工業」の予定ですが、遅れぎみなので第14章「絶対的および相対的剰余価値の生産」まで講義が進むかも知れません。講義の前に有志で復習をしています。ですから今日は第13章を読みきる時間は無く、第10章「相対的剰余価値の概念」の報告を書かなければなりません。
 また、この有志の一員の方から一つの問題提起がメイルできました。アベノミクス批判をマルクス貨幣論の立場から根底的な批判がされているのか? という事なのですが現在考え中というところです。月刊「経済」にはこれまでにも多数の論文や討論も掲載されているのに、「この方、そうしたものを読んでいるのだろうか?」と思いましたが、「マルクス貨幣論」の立場から、というのであれば良い復習になることと思います。しかし同時に「貨幣数量説」に対する批判になるのだろうし、それを理解する必要が出てきます。今、考え中というところです。

 その他にも雑用があり、忙しい一日になりそうです。


9月11日 もう一つの9.11 サルバドール・アジェンデ最後の演説 [世界の動き]

 9月11日、この日について多くの人は、2001年9月11日のアメリカへの同時多発テロ事件を思い起こす事でしょう。この事件では3025人の方が犠牲になったと言います。今年はこの事件の12周年です。これら犠牲者の方々に改めて冥福を祈ると共に、残されたご家族、ご友人の方々にお悔やみを申し上げたい。またマイケル・ムーア監督の映画「シッコ」に描かれていたように、危険の伴う貿易センタービルでの救助作業にボランティアで駆けつけ、肺疾患など様々な疾患をおった方々もいらっしゃいます。そうした方々の勇気に感嘆すると共に、一日も早い回復を祈っております。

 さて、9.11はもう一つあるのです。それは、1973年の9月11日のことでした。場所は南米のチリ、合法的な選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ大統領が、アメリカのCIAに援助されたアウグスト・ピノチェト将軍の クーデターで「殺された」日なのです。

  チリでは人民連合(ウニダード・ポプラール)にチリ社会党やチリ共産党が結集し、国民のための政治をと戦っていたのでした。幾度かの浮沈のあと、1970年、アジェンデが大統領に当選します。しかし、それを嫌ったアメリカの後押しでピノチェト将軍のクーデターで、世界で初めての選挙による民主的革命を押しつぶしてしまったのです。

 国際社会(この語を私は安倍さんとは別の意味で使います)は、抗議の声をあげ、特に映画では「サンチャゴに雨が降る」がフランス、ブルガリアの合作で製作されました。「男と女」「暗殺の森」のジャン・ルイ・トランティニアン(最近では「愛、アモール」)や、アニー・ジラルドなどの俳優、音楽はアルゼンチンのアストル・ピアソラ等、錚々たる芸術家たちが、無償でこの映画製作に参加したのでした。
 他に、アメリカ映画「ミッシング」が作られています。実話に基づく作品だと言います。ジャーナリストの息子がクーデターのさなかにあるチリで行方不明となり、心配した父親(ジャック・レモン)が捜索に乗り出すと、そこにはCIAと思しき連中が。といった作品です。監督は「Z」「戒厳令」のコスタ・ガブラスです。これも必見の映画!

 さて、今までアジェンデの死は「自殺のよる」とされてきました。 大統領府であるモネダ宮を圧倒的なクーデター軍の攻撃を悲観して、と言う事でしょうか? しかし、数年前から、チリではクーデター犠牲者の死について検証が始まっており、アジェンデ大統領についても、クーデター軍の銃弾によるものではないか、と検証が進んでいます。ですから私は冒頭で「殺された」と書いたのです。

 このクーデター中に、チリ共産党員でノーベル賞詩人、パリ大使を務めていたパブロ・ネルーダもなくなります。当初病死とされてきましたが、毒殺の疑いあり、との事で現在調査が始められています。

 今、アメリカによるシリア攻撃が画策されています。安倍首相はこれに無批判に追随しています。何の道理もなく、一握りの個人や企業の利益の為に、アジェンデは殺されました。同時多発テロの犠牲者も正義も道理もない理由で、殺されましたが、すべては繋がっています。殺されるのは、何の罪も無い庶民であること、その庶民のための政治を実現しようとする、高貴な政治家に対しては、法を無視しても排除する、こうしたことが今日本で進行しています。それに抗議する上でも、次のサルバドール・アジェンデの最後の演説を紹介したいのです。如何に彼が高貴な政治家であったかを。

 

 

 


8月23日 ジジイ・バンドの練習日、熱海合宿 [演奏]

 高校の先輩の別荘にお邪魔して、我がジジイ・バンドの合宿練習をしてきました。10曲ほどは何とか完成の域か、と思われます。あと、5~6曲、新しい曲を練習しましたが、こちらはまだまだ公開できません。

  練習もさることながら、持ち込んだお酒が程々にあり、演奏に支障が出るのもお構い無く飲みながらの練習になりました。

 また、インストゥルメンタルもやろうとなり、「Devil's Dream」をフィドルで弾くことになり、こんな早い曲弾けるのかいな? と少々困惑してます。 こんな曲です。まるでバイオリンの運指の練習みたいな感じです。もちろんこんなに早くは弾けません。

 


6月1日 金、金、金!! [資本論番外編]

 ただいま、6月1日0時34分です。世の中色々ありますが、気の重くなる話題ばかりですね。直近では「橋下問責決議」が公明党の修正案で流れそうだったり? アベノミクス(アホノミクス、アベコベミクスが正しい言い方)で株価は上がるが、燃油も上がるで漁業者の方々が困っていたり! 私が解説記事を書いても(いつかするどい記事を書きたいのですが)仕様がないのでやはり資本論から! 
 面白い文章がありました。第3章、貨幣または商品流通の原注91と92です。

「金か! 黄金色にきらきら輝く貴重な金貨だな!
 ・・・これだけの金があれば、黒を白に、醜を美に、
 邪を正に、卑賎を高貴に、老いを若きに、
 臆病を勇気に変えることもできよう。
 ・・・神々よ、どういうことだ、これは? どうしてこれを?
 これはあなたがたのそばから神官や信者達を引き離し、
 まだ大丈夫という病人の頭から枕を引きはがす代物だ。
 この黄金色の奴隷めは、信仰の問題でも
 人々を結合させたり離反させたりし、
 呪われたやつらを祝福し、白癩病みを崇拝させ、
 盗賊を立身させて、元老院議員なみの爵位や権威や栄誉を与えるやつなのだ。
 枯れしぼんだ古後家を再婚させるのもこいつだ。
 ・・・やい、罰当たりな土くれめ、
 ・・・売女め」
 シェイクスピア作 「アセンズのタイモン」より

 「まったく、人の世の習いにも、
 金銭ほど人に禍いをなす代物はない、
 こいつのために町は亡ぼされ、民は家から追い立てられる。
 この代物が人間のまともな心を迷いに導き、
 ねじまげて、恥ずべき所業に向かわせ、
 人々に邪悪の道を踏みならわせては、
 見境なしに不敬の業へさそい込むのだ」
 ソフォクレス作 「アンティゴネ」より

 二人の天才劇作家の文章、如何がでしょう! 見事に「お金」の本質を突いていると思いませんか? 現代の金の亡者の顔が思い浮かびますね! 加えて庶民の暮らしの厳しさも!

 次は昨年亡くなられた小沢昭一さんの歌です。添田唖蝉坊の「金かね節」 ではどうぞ。


5月27日 昨日の資本論講座 [資本論番外編]

 昨26日は、資本論講座でした。山内先生の最後の講義、次回より首都大学名誉教授の宮川彰先生に交代です。

 山内先生の最後の講義は、第3章、貨幣または商品流通の第3節、貨幣から第4章、貨幣の資本への転化でした。第4章でやっと資本論の真打ち、資本の登場です。

 ところで講座は毎月第4日曜日に行なわれており、参加者の討論の時間もあるのですが、何せ時間が少なく、有志が集まって復習する会が出来ています。私はそれでも討論が足りないと思い、希望者が参加するメーリングリストを作りました。が意外と皆さんネットに精通している方が少ないのです。

 でも資本論の学習は個人が基本だとは思いますが、他の受講者の疑問や意見と言うのは、極めて貴重です。思わぬ質問に自分はどう答えるのか、また自分の分からないことを疑問・質問として表わすことが、実はとても難しいし、そういう訓練をしないと、とても資本論を理解することは出来ません。

 自分とまったく違う考えを持つ学習仲間の存在は、とても大切なことなのです。


5月27日 またまたグータラしてしまいました! [日常]

 直近の投稿が4月の9日だから、また間が開いてしまいました。どうも資本論の読解に詰まると、他のことも書けずにブログ更新が止まるようです。何か物言いが他人事のようですが!!

 しかし、この間の社会、政治の有り様は酷いことばかり! 大阪の橋下さんの発言は常軌を逸していますね。まだ尾を引いています。私はその影に隠れているアベノミクスのいかがわしさ、を初めとして原発再稼働、憲法96条改悪、沖縄の基地問題、TPP、 生活保護問題、東北の震災からの復興が全く進んでいないこと、などなどがどんどん進められていることが心配でたまりません。個別に意見を述べるべきでしょうが、その大変さと言ったら。きちんと書くには調べることが必要です。

 でもはっきりしている事、今の安倍内閣は、国民国家の体裁さえ放棄しようとしていることでしょう。この視点からなら個別問題でもすぐに意見を書けるし、書くべき、と思った次第! またブログ再開します。よろしく


4月9日 待機児童について [社会保障]

 今、保育園に入れない待機児童問題がクローズ・アップされています。「就活」とか言う略語が生まれ、世の中大変だなァー、と思っていたところに、またまた「婚活」が生まれ、今度は「保活」だと! 妊娠中からご両親は、お子さんを入れる保育園探しを心配しなければならないと言います。

 杉並のお母さんたちから「保育園を増やして」の運動が始まり、各区にそれが広がっています。くわしくはお知らせ出来ませんが、今日は「待機児童」という言葉について。

 「待機児童」というのは、どうやら「行政用語」のようです。というのも、「保活」で認可保育園に行き、満員で入園を断られた場合、「空きが出来たら入園したい」と意志表示しないと「待機児童」に換算されないのです。そうした制度的な事を知らないまま、困惑したまま帰って行く親御さんが多いのではないでしょうか?

 フランスでは、不況にもかかわらず、依然として出生率が下がっていないといいます。色々原因はあるでしょうが、はっきりしているのは保育園を増やしたこと。日本でこれが何故出来ないのでしょうか?

 先日、NHKで、もっと包括的な女性と仕事の問題も取り上げた番組、日産の取締役まで出ていた、視聴者参加の番組をやっていましたが、何時ものように雲の上の話をしているようで、見るのを止めてしまいました。
 今思えばちゃんと見ておけば良かったと思います。おそらく問題を拡散してしまう内容だったのではないかと思います。NHK! 何時ものことですから。


4月4日 生活保護受給者はパチンコをしていけないのか? [社会保障]

 先月末、兵庫県小野市で、生活保護費や児童手当費でパチンコをするのを禁止する「福祉給付制度適正化条例」が可決されたと言います。
リンクはこちら http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130403/plt1304031218004-n1.htm

 この記事では、例によって片山さつき女史が登場し、「生活保護の不正受給はケースワーカーが調査しているが、1人で100件以上も抱えて、目が行き届かない。条例には、それを市民がカバーする面もあり、大きな意味がある。市民の通報責務も、地域コミュニティーで助け合ったり、ルール違反を注意するもので、努力義務のようなもの。罰則もなく問題ありません」と述べています。

 万一、そうした行為が発見されたとしても、注意されるだけとのことですが、ますます保護が必要な人の足を遠のかせることになるでしょう。

 現在、生活保護費は地域や世帯の人数によって、差がありますが、東京の区部の場合、1人世帯で月額約137、000円、3人世帯で約170、000円、高齢者単身でなんと約80、000円という安さです。(データはWikipediaより)

 私はパチンコをやりませんので、最低いくらかかるのか分かりません。不正受給者ならいざ知らず、圧倒的多数の受給者は、今の給付金額では、パチンコで散財する余裕などないでしょう。いくら市民の多数が支持しているからといって、人のささやかな息抜きを奪うのは許せませんし、監視社会への第一歩です。そのことは自民党などが散々批判してきた、旧ソ連(似非共産主義社会)へ向かうことではありませんか?

 対して今の国会議員の歳費は、年額2,200万円(他の手当てを入れると4,200万円)と言われています。これに政党助成金が各政党を通じて、議員に回っていることでしょう。 調査費での海外旅行はあとを断たず、消化出来なかった助成金も返還しない、こんな不正(あえて不正と言います)を働いておいて、わずかばかりの保護費を削ろうとする。それに恥を感じない人間は、議員としての資質も資格もないと言わざるを得ません。

 数十年後の日本は、高齢化社会になると言われているとき、社会保障の拡充と制度設計は、緊急の課題でしょう。それを自分の狭い視野に入るだけのことで、生活保護費や社会保障を抑制を計る片山女史のような人は、議員の職務を放棄していると言わせていただきます。なにより、人間としての品性が全くありませんね。

 今、日本は「格差社会」と言われます。片山さつき女史のような自分を選民と考えている議員の策動を許せば「奴隷社会」になるでしょう。


4月2日 資本論第一章第四節 商品の物神的性格とその秘密 読解その1 [資本論]

 第四節については、「はじめに」で書いたように、各段落毎に読解を書いていきます。又マルクスの議論の展開毎に、小見出しを付けます。
 また訳語の件ですが、新日本出版版では「入れ替わり」となっていたり、他の訳では「取り違え」であったりします。私は新日本出版版に合わせ「入れ替わり」を採用します。

1.商品の奇妙さを示す
 第1段落(121-6)「商品は、一見、自明な、平凡なものらしく見える。・・・」

 一見したところ、商品は何ら奇妙なものには見えません。しかし異なった形や用途、尺度を持つ諸商品が、何故等しいものとして交換されうるのかを分析してみると、如何にやっかいな事でしたでしょうか? 冒頭の「商品の分析は、非常にやっかいなもの」との指摘は、明らかに第三節の価値形態論を指しています。
 第一段落は、この価値形態の奇妙さに背後で支えられながら、商品自体の奇妙さを指摘する部分です。木のテーブルは、それが人間の手で作られ、食卓として使えるものとして、感性的に把握でき、何の不思議もありません。しかし、それを商品としてみると、超感性的なものに転化します。脚で立つとは、使用価値としてという意味、頭で立ちとは、交換価値として諸商品に対し、交換関係の中で現われるものです。
 テーブルを商品として捉えると、突然、他の商品と交換可能かどうかが問題となり、市場で他の商品と対置させてみなければ分かりません。生産者が自ら作ったものであるにも関わらず、自分の都合で制御できない事態となり、それは普通の感性を超えてしまう、超感性的なもの、奇妙な妄想を展開する、という事になります。ここでも第三節で述べられた寡婦のクイックリー夫人とは違っている、という事態があります。

第2段落(122-12)「したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない・・」
 第1段落を受ければ、この奇妙さの原因を求めなければならないのですが、第2段落では、奇妙さの原因にはなり得ない点を、3点挙げています。
①商品の使用価値から生じるのではない。
 これは第1段落で明らかです。
②価値規定の内容から生じるのでもない。
 商品の価値を作り出すのは、第二節で社会的抽象的人間労働であることを見てきました。この抽象的人間労働も理論として精緻に考えなくても「生理的真理」であって、不思議ではありません。価値量についても、注26で、人間は労働時間について、かつても関心を払ってきたとしています。
③人間がなんらかの様式で生産するようになると、彼らの労働は社会的形態を受け取ります。
 労働はどんな社会形態でも、その社会に必要な使用価値を作り出し、個々人の労働は総労働の一翼(分業の一環)を担ってきました。資本主義社会においても、このことは変わりません。この限りにおいては労働も具体的に把握できますので、何ら不思議ではありません。

2.商品の奇妙さの原因を商品形態(価値形態)に求め、これを「物神性」と名付けると共に、何故「入れ替わり」が生ずるかを明らかにする。
第3段落(123-8)「では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎的性格はどこから来るのか・・」

 商品の奇妙さの原因は、この形態そのもの、つまり商品形態からだ、とマルクスは言います。商品形態からというのは、その内に奇妙さを生む関係が集約的に現われており、人間の目にまず飛び込んでくるものだからです。では商品の形態とはどのようなものなのでしょうか?
①人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取る。
 はじめにで述べたように、商品は、現物形態のままで価値形態を得ます。
②労働時間の継続による人間労働力の支出は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取る。
 同じく、商品は価値量としても比較可能な形態を得ます。
③最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がそのなかで発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。
 どの社会でも、人間の労働は、社会を養っていく物を生産すると言う意味で、社会的です。しかし、商品生産社会の労働は私的労働であり、そのため交換される商品そのものが社会的関係を結ぶ、という自立的な形態を受け取ります。
 ここには第三節で考察された、①商品は現物形態のままで価値形態を表わすこと、及び労働の社会性の反映(価値と価値量を表わす)、②具体的有用労働が抽象的人間労働を表わす(私的労働が社会的労働を表わす)ことが、人間の認識に影響することが述べられています。ですから第三節での考察がここでの基礎になっています。
 このように人間の日常意識には、商品は具体的な姿と共に、価値物として、社会性を持つものとしての性質が看取されるものとなるのです。

第4段落(123-13)「したがって、商品形態の神秘性は、単に次ぎのことにある。・・」
 しかし、商品の奇妙さが何処から来るかの考察が、ここに留まるものではありません。労働生産物が商品として立ち現われると、人間自身の労働が社会的性格を持つのにも関わらず、商品そのものの社会的性格のように見えます。それがあたかも自然な属性のように見えるのです。と言うのも商品の交換は、人間同士の社会的関係を表わしているのですが、彼らの作り出した商品そのものの関係、自立した関係として現われます。これが「入れ替わり」と言われる関係であり、商品を超感性的なものにしているのです。
 商品の社会的関係、物と物との関係というのは、背後に人間と人間との関係があります。だから物と物との関係は幻影的な関係と言えます。ここに商品が「物神的性格」を持たざるを得ない理由があるのです。宗教世界において神を拝むのは、明らかに人間の頭脳が生み出したものを崇拝することですが、商品の物神性もそれに似て、商品生産社会に固有の現象なのです。人間はこの「入れ替わり」をストレートに反映します。

第5段落(124-12)「商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでにしめしたように、商品を生産する労働に固有な社会的性格から生じる。」
 ここで考察の視点が変わります。商品生産者の労働は私事であること、又、生産物が市場で交換される事によって、その労働は社会性を持つことになり、労働は二重の性格を持つことになります。第6段落でさらに展開されます。
(4月2日ここまで)
 さてそれでは、何故そのような形態をとるのか? その原因を「商品を生産する労働に固有の性格から生じる」としています。(4月14日訂正)

 


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