4月2日 資本論第一章第四節 商品の物神的性格とその秘密 読解その1 [資本論]

 第四節については、「はじめに」で書いたように、各段落毎に読解を書いていきます。又マルクスの議論の展開毎に、小見出しを付けます。
 また訳語の件ですが、新日本出版版では「入れ替わり」となっていたり、他の訳では「取り違え」であったりします。私は新日本出版版に合わせ「入れ替わり」を採用します。

1.商品の奇妙さを示す
 第1段落(121-6)「商品は、一見、自明な、平凡なものらしく見える。・・・」

 一見したところ、商品は何ら奇妙なものには見えません。しかし異なった形や用途、尺度を持つ諸商品が、何故等しいものとして交換されうるのかを分析してみると、如何にやっかいな事でしたでしょうか? 冒頭の「商品の分析は、非常にやっかいなもの」との指摘は、明らかに第三節の価値形態論を指しています。
 第一段落は、この価値形態の奇妙さに背後で支えられながら、商品自体の奇妙さを指摘する部分です。木のテーブルは、それが人間の手で作られ、食卓として使えるものとして、感性的に把握でき、何の不思議もありません。しかし、それを商品としてみると、超感性的なものに転化します。脚で立つとは、使用価値としてという意味、頭で立ちとは、交換価値として諸商品に対し、交換関係の中で現われるものです。
 テーブルを商品として捉えると、突然、他の商品と交換可能かどうかが問題となり、市場で他の商品と対置させてみなければ分かりません。生産者が自ら作ったものであるにも関わらず、自分の都合で制御できない事態となり、それは普通の感性を超えてしまう、超感性的なもの、奇妙な妄想を展開する、という事になります。ここでも第三節で述べられた寡婦のクイックリー夫人とは違っている、という事態があります。

第2段落(122-12)「したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない・・」
 第1段落を受ければ、この奇妙さの原因を求めなければならないのですが、第2段落では、奇妙さの原因にはなり得ない点を、3点挙げています。
①商品の使用価値から生じるのではない。
 これは第1段落で明らかです。
②価値規定の内容から生じるのでもない。
 商品の価値を作り出すのは、第二節で社会的抽象的人間労働であることを見てきました。この抽象的人間労働も理論として精緻に考えなくても「生理的真理」であって、不思議ではありません。価値量についても、注26で、人間は労働時間について、かつても関心を払ってきたとしています。
③人間がなんらかの様式で生産するようになると、彼らの労働は社会的形態を受け取ります。
 労働はどんな社会形態でも、その社会に必要な使用価値を作り出し、個々人の労働は総労働の一翼(分業の一環)を担ってきました。資本主義社会においても、このことは変わりません。この限りにおいては労働も具体的に把握できますので、何ら不思議ではありません。

2.商品の奇妙さの原因を商品形態(価値形態)に求め、これを「物神性」と名付けると共に、何故「入れ替わり」が生ずるかを明らかにする。
第3段落(123-8)「では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎的性格はどこから来るのか・・」

 商品の奇妙さの原因は、この形態そのもの、つまり商品形態からだ、とマルクスは言います。商品形態からというのは、その内に奇妙さを生む関係が集約的に現われており、人間の目にまず飛び込んでくるものだからです。では商品の形態とはどのようなものなのでしょうか?
①人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取る。
 はじめにで述べたように、商品は、現物形態のままで価値形態を得ます。
②労働時間の継続による人間労働力の支出は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取る。
 同じく、商品は価値量としても比較可能な形態を得ます。
③最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がそのなかで発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。
 どの社会でも、人間の労働は、社会を養っていく物を生産すると言う意味で、社会的です。しかし、商品生産社会の労働は私的労働であり、そのため交換される商品そのものが社会的関係を結ぶ、という自立的な形態を受け取ります。
 ここには第三節で考察された、①商品は現物形態のままで価値形態を表わすこと、及び労働の社会性の反映(価値と価値量を表わす)、②具体的有用労働が抽象的人間労働を表わす(私的労働が社会的労働を表わす)ことが、人間の認識に影響することが述べられています。ですから第三節での考察がここでの基礎になっています。
 このように人間の日常意識には、商品は具体的な姿と共に、価値物として、社会性を持つものとしての性質が看取されるものとなるのです。

第4段落(123-13)「したがって、商品形態の神秘性は、単に次ぎのことにある。・・」
 しかし、商品の奇妙さが何処から来るかの考察が、ここに留まるものではありません。労働生産物が商品として立ち現われると、人間自身の労働が社会的性格を持つのにも関わらず、商品そのものの社会的性格のように見えます。それがあたかも自然な属性のように見えるのです。と言うのも商品の交換は、人間同士の社会的関係を表わしているのですが、彼らの作り出した商品そのものの関係、自立した関係として現われます。これが「入れ替わり」と言われる関係であり、商品を超感性的なものにしているのです。
 商品の社会的関係、物と物との関係というのは、背後に人間と人間との関係があります。だから物と物との関係は幻影的な関係と言えます。ここに商品が「物神的性格」を持たざるを得ない理由があるのです。宗教世界において神を拝むのは、明らかに人間の頭脳が生み出したものを崇拝することですが、商品の物神性もそれに似て、商品生産社会に固有の現象なのです。人間はこの「入れ替わり」をストレートに反映します。

第5段落(124-12)「商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでにしめしたように、商品を生産する労働に固有な社会的性格から生じる。」
 ここで考察の視点が変わります。商品生産者の労働は私事であること、又、生産物が市場で交換される事によって、その労働は社会性を持つことになり、労働は二重の性格を持つことになります。第6段落でさらに展開されます。
(4月2日ここまで)
 さてそれでは、何故そのような形態をとるのか? その原因を「商品を生産する労働に固有の性格から生じる」としています。(4月14日訂正)

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。