4月2日 資本論第一章第四節 商品の物神的性格とその秘密 読解その1 [資本論]

 第四節については、「はじめに」で書いたように、各段落毎に読解を書いていきます。又マルクスの議論の展開毎に、小見出しを付けます。
 また訳語の件ですが、新日本出版版では「入れ替わり」となっていたり、他の訳では「取り違え」であったりします。私は新日本出版版に合わせ「入れ替わり」を採用します。

1.商品の奇妙さを示す
 第1段落(121-6)「商品は、一見、自明な、平凡なものらしく見える。・・・」

 一見したところ、商品は何ら奇妙なものには見えません。しかし異なった形や用途、尺度を持つ諸商品が、何故等しいものとして交換されうるのかを分析してみると、如何にやっかいな事でしたでしょうか? 冒頭の「商品の分析は、非常にやっかいなもの」との指摘は、明らかに第三節の価値形態論を指しています。
 第一段落は、この価値形態の奇妙さに背後で支えられながら、商品自体の奇妙さを指摘する部分です。木のテーブルは、それが人間の手で作られ、食卓として使えるものとして、感性的に把握でき、何の不思議もありません。しかし、それを商品としてみると、超感性的なものに転化します。脚で立つとは、使用価値としてという意味、頭で立ちとは、交換価値として諸商品に対し、交換関係の中で現われるものです。
 テーブルを商品として捉えると、突然、他の商品と交換可能かどうかが問題となり、市場で他の商品と対置させてみなければ分かりません。生産者が自ら作ったものであるにも関わらず、自分の都合で制御できない事態となり、それは普通の感性を超えてしまう、超感性的なもの、奇妙な妄想を展開する、という事になります。ここでも第三節で述べられた寡婦のクイックリー夫人とは違っている、という事態があります。

第2段落(122-12)「したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない・・」
 第1段落を受ければ、この奇妙さの原因を求めなければならないのですが、第2段落では、奇妙さの原因にはなり得ない点を、3点挙げています。
①商品の使用価値から生じるのではない。
 これは第1段落で明らかです。
②価値規定の内容から生じるのでもない。
 商品の価値を作り出すのは、第二節で社会的抽象的人間労働であることを見てきました。この抽象的人間労働も理論として精緻に考えなくても「生理的真理」であって、不思議ではありません。価値量についても、注26で、人間は労働時間について、かつても関心を払ってきたとしています。
③人間がなんらかの様式で生産するようになると、彼らの労働は社会的形態を受け取ります。
 労働はどんな社会形態でも、その社会に必要な使用価値を作り出し、個々人の労働は総労働の一翼(分業の一環)を担ってきました。資本主義社会においても、このことは変わりません。この限りにおいては労働も具体的に把握できますので、何ら不思議ではありません。

2.商品の奇妙さの原因を商品形態(価値形態)に求め、これを「物神性」と名付けると共に、何故「入れ替わり」が生ずるかを明らかにする。
第3段落(123-8)「では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎的性格はどこから来るのか・・」

 商品の奇妙さの原因は、この形態そのもの、つまり商品形態からだ、とマルクスは言います。商品形態からというのは、その内に奇妙さを生む関係が集約的に現われており、人間の目にまず飛び込んでくるものだからです。では商品の形態とはどのようなものなのでしょうか?
①人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取る。
 はじめにで述べたように、商品は、現物形態のままで価値形態を得ます。
②労働時間の継続による人間労働力の支出は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取る。
 同じく、商品は価値量としても比較可能な形態を得ます。
③最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がそのなかで発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。
 どの社会でも、人間の労働は、社会を養っていく物を生産すると言う意味で、社会的です。しかし、商品生産社会の労働は私的労働であり、そのため交換される商品そのものが社会的関係を結ぶ、という自立的な形態を受け取ります。
 ここには第三節で考察された、①商品は現物形態のままで価値形態を表わすこと、及び労働の社会性の反映(価値と価値量を表わす)、②具体的有用労働が抽象的人間労働を表わす(私的労働が社会的労働を表わす)ことが、人間の認識に影響することが述べられています。ですから第三節での考察がここでの基礎になっています。
 このように人間の日常意識には、商品は具体的な姿と共に、価値物として、社会性を持つものとしての性質が看取されるものとなるのです。

第4段落(123-13)「したがって、商品形態の神秘性は、単に次ぎのことにある。・・」
 しかし、商品の奇妙さが何処から来るかの考察が、ここに留まるものではありません。労働生産物が商品として立ち現われると、人間自身の労働が社会的性格を持つのにも関わらず、商品そのものの社会的性格のように見えます。それがあたかも自然な属性のように見えるのです。と言うのも商品の交換は、人間同士の社会的関係を表わしているのですが、彼らの作り出した商品そのものの関係、自立した関係として現われます。これが「入れ替わり」と言われる関係であり、商品を超感性的なものにしているのです。
 商品の社会的関係、物と物との関係というのは、背後に人間と人間との関係があります。だから物と物との関係は幻影的な関係と言えます。ここに商品が「物神的性格」を持たざるを得ない理由があるのです。宗教世界において神を拝むのは、明らかに人間の頭脳が生み出したものを崇拝することですが、商品の物神性もそれに似て、商品生産社会に固有の現象なのです。人間はこの「入れ替わり」をストレートに反映します。

第5段落(124-12)「商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでにしめしたように、商品を生産する労働に固有な社会的性格から生じる。」
 ここで考察の視点が変わります。商品生産者の労働は私事であること、又、生産物が市場で交換される事によって、その労働は社会性を持つことになり、労働は二重の性格を持つことになります。第6段落でさらに展開されます。
(4月2日ここまで)
 さてそれでは、何故そのような形態をとるのか? その原因を「商品を生産する労働に固有の性格から生じる」としています。(4月14日訂正)

 


3月22日 資本論第一章第四節 商品の物神的性格とその秘密 [資本論]

 お断り:この投稿は今後も書き換えが発生しますので、ご承知置きください。
と書いたように、全面的に書き換えました。(3月31日)

 はじめに
 第四節、商品の物神的性格とその秘密は、第一章、商品を締め括る節になっています。マルクスはこれまで、商品を分析的に考察し、①使用価値、価値を持つこと、②労働の二重性、③商品相互の対峙の中から貨幣が生まれることを明らかにしてきました。この節では、それらを手掛かりとし、商品の物神性という切り口から、商品生産社会の特殊歴史性を暴きだします。
 商品の奇妙さは、これまでの各節でも仄めかされています。それらを簡単に振り返ってみましょう。また、この節の難しさは、今までの節とは違い、経済的な関係が人間の意識、認識にどのように反映するかを扱っていることにあります。

第一節 商品の二要因
 「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる」として、商品の二要因、使用価値と交換価値を示し、交換価値からその本質である価値を導き出しました。
 さらに使用価値は「富の素材的な担い手」であると同時に「交換価値の素材的担い手」であると述べています。
第二節 商品に表わされる労働の二重性
 第一節で明らかにした使用価値と価値を形成する労働に二重性があること、使用価値を形成する具体的有用労働、価値を形成する抽象的人間労働を明らかにしました。また、価値は人間労働の同等性を表しますから、それは労働の継続時間で測られることも明らかにしました。
 また「自律的な、互いに独立の、私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。」(P72ー6)として、後に展開される背景を述べています。
第三節 価値形態または交換価値
 ここでは、まず二つの商品を対置させ、貨幣が生まれる仕組みを考察しました。最終的に「貨幣」として出現する価値形態は価値の現象形態であり、貨幣の生まれる論理的な必然性を明らかにしました。
 またこの節には、次のような重要な内容が、奇妙でもある内容が含まれています。次の通り、
 20エレのリンネル=1着の上着という等式の価値関係ですが、これは以下の事を表しています。①人間労働の同等性、②労働の継続時間がその支出の尺度、③人間相互の労働の社会的性格、です。また次の事も表わしています。相対的価値形態であるリンネルは、①現物形態とは違う価値形態を得ています。②特定の大きさを持つものとして、上着によって量的に計測されうることとなっています。投下形態である上着は①使用価値がその反対物である価値の現象形態となっており、②具体的な労働がその反対物である抽象的人間労働となっており、さらに③私的労働がその反対物である社会的労働になっている、ということです。
 このように、第四節でさらに吟味されるべき内容が、前節において提示されていました。

 それらを踏まえての第四節ですが、大まかに次のような順序で考察が進められます。
①商品の奇妙さを示す
②商品の奇妙さの原因を商品形態に求め、これを「物神性」と名付けると共に、「入れ替わり」がどのように生ずるかを明らかにする。
③「入れ替わり」の固定化、それを分析する人間の側の考察との関係を示し、古典派経済学の転倒性を示す
④商品生産は特殊歴史的なものである事を示し、それが消滅すれば「物神性」は消滅すること
⑤総括、及び再度の経済学批判

次回より、以上の視点にたって、各段落毎に読解を書いてゆく事にします。

以上

 

 


2月14日 資本論第一章 第3節 C一般的価値形態、D貨幣形態 [資本論]

 *前回の書き方についてのお断りに加えて、資本論本文からの引用を太字で表わします。

  第Ⅰ形態、第Ⅱ形態の考察を通じて、価値表現の発展、その仕組みを見てきました。この第Ⅲ形態で価値形態の性格が変化し、貨幣形態へ近づいていきます。
 第Ⅲ形態の一般的価値形態では、前回の最後で書いたように次の表現で表れます。
    1着の上着
    10ポンドの茶
    40ポンドのコーヒー =20エレのリンネル
    1クォーターの小麦
    2オンスの金
1 価値形態の変化した性格
(112-2)「商品は、それぞれの価値を、(1)ただ一つの商品で、簡単に表わしている。なぜなら、ただ一つの商品で表わしているからであり、かつ(2)統一的に表わしている。なぜなら、同じ商品で表わしているからである。諸商品の価値形態は、簡単、かつ共同的であり、それゆえ一般的である。」

 マルクスは、まず第Ⅲ形態の特徴を挙げています。それは諸商品の価値を一つの商品で表わしているので、簡単かつ統一的な価値表現となった、としています。次にこの第Ⅲ形態を以前の第Ⅰ、第Ⅱ形態とどのように違うかを述べます。
(112-5)「形態Ⅰ及び形態Ⅱは、どちらも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値または商品体とは区別されたものとして表現したにすぎなかった。」
 商品Aの価値を、他の一つの商品で表わしたのが第Ⅰ形態、その他の商品が個々ばらばらに表わしたのが第Ⅱ形態でした。そのどちらも、一つの商品の価値を他の商品で表現する形態でした。相対的価値形態にあるのは両方とも、。一つの商品だったのでした。
 さらにこれら以前の形態が、商品交換の歴史的な発展段階において、どのように現われたかを述べています。
(*以下、本文では、1着の上着と20エレのリンネルが、第Ⅰ形態、第二形態を考察した時の表現とは逆になっていますので注意して下さい。前には20エレのリンネル=1着の上着でした。)
(112-8)「第一の形態、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄、などのような価値等式を示した。上着価値はリンネルに等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というように表現されるが、リンネルに等しいもの、および鉄に等しいものという上着および茶のこの価値表現は、リンエルと鉄が異なっているように、異なっている。この形態が実際に現われるのは、明らかに、ただ、労働生産物が偶然的なときおり行なわれる交換によって商品に転化されるそもそもの始まりにおいてである。」
 はるか昔の共同体内部では、労働生産物の交換が行なわれず、したがって生産物は商品ではありませんでした。その社会で労働生産物が商品として交換されるのは、共同体と、その他の共同体との間で、余剰生産物が発生した際に行なわれたに過ぎませんでした。ですから、「偶然的」で「ときおり」なのであり「そもそもの始まり」なのです。
(112-14)「第二の形態は、第一の形態より完全に、一商品の価値をその商品自体の使用価値から区別する。というのも、たとえば上着の価値は、いまや、ありとあらゆる形態で、すなわち、リンネルに等しいもの等などとして、つまり、上着に等しいものでないだけで他のあらゆるものに等しいものとして、上着の自然形態に相対するからである。他面、ここでは、諸商品の共通な価値表現は、すべて排除されている。というのは、それぞれの商品の価値表現において、いまや他のあらゆる商品は、ただ等価物の形態でのみ現われるからである。展開された価値形態が、はじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜が、もはや例外的にではなくすでに慣習的に、他のさまざまな商品と交換されるときである。
 第Ⅱ形態では、まず商品すべてが価値表現に参加しているため、第Ⅰ形態よりも完全に商品Aの価値を、その使用価値から区別します。しかしながら、商品A以外の商品は等価形態として、個々ばらばらに商品Aの価値を表現しているため、どの商品にも共通な価値表現にはなっていません。
 以下は私の疑問です。下線部分は、良く意味が掴めません。文章の流れから言うと、第Ⅱ形態を考察対象にしており、「家畜」が相対的価値形態にあるものと思われますが、「他のさまざまな商品と交換されるとき」とありますので、価値形態の議論から離れてしまっているように見えるのです。文章そのままに読めば「家畜」が等価形態のように読めます。第Ⅰ形態の時にも述べたのですが、価値形態論を理解するうえで肝心なことに、商品同士が=で結ばれるとき、回り道の論理で価値が浮かび上がるのであって、交換を前提にはしていない、ということです。交換された途端、価値形態の両極は消失すると考えるからです。マルクス自身、等価形態を語るとき、左辺の商品(相対的価値形態)に対する「交換可能性」としています。
(2月14日、ここまで)
(113-6)「新しく得られた形態は、商品世界の諸価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうしてすべての商品の価値を、それらの商品のリンネルとの同等性によって表わす。リンネルに等しいものとして、どの商品の価値も、いまや、その商品自身の使用価値から区別されているだけでなく、およそ使用価値というものから区別されており、まさにそのことによって、その商品とすべての商品に共通なものとして、表現されている、だから、この形態がはじめて現実的に諸商品を互いに価値として関連させ、言い換えれば、諸商品を互いに交換価値として現象させるのである。」
 リンネルを商品世界唯一の等価形態とすることにより、リンネル以外の商品価値を表わします。またこのことにより、リンネルを除いた諸商品の価値が、完全にそれらの使用価値から分離されて表現されます。こうして諸商品は互いに交換価値として現象し、互いに関連することが出来ます。
(113-13)「前の二つの形態は、商品の価値を、種類を異にするただ一つの商品によってであれ、その商品とは異なる一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分自身に一つの価値形態を与えることは、いわば個々の商品の私事であり、個々の商品は他の諸商品の関与なしにそれをなしとげる。他の商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演じる。一商品が一般的価値形態を獲得するのは、同時に他のすべての商品がそれらの価値を同じ等価物で表現するからにほかならず、そして、新しく登場するどの商品種類もこれにならわなければならないのである。」
 第Ⅰ形態の偶然的な性格、第Ⅱ形態のそれぞれ特殊な価値等式の列は、どちらも各々の商品が出会うときに現われます。つまり私事です。これに対し、第Ⅲ形態は、労働生産物の交換が社会の隅々にまで広がったことを背景としています。一般的な等価形態を担う商品は、他の商品から排除されてその役割を担うので、新たに商品世界に加わる商品も、この一つの商品で自己の価値を表わす、ということを受け入れなければならないのです。
(114-6)「リンネルに等しいものという形態で、いまやすべての商品が質的に等しいもの、すなわち価値一般として現われるだけでなく、同時に、量的に比較されうる価値の大きさとしても現われる。」
 ここでの考察は言うまでもないことですが、リンネルは唯一の等価形態にあります。そのことにより、他のすべての商品が価値一般として現われ、商品同士の量的な大きさも比較出来るようになります。
(2月15日 ここまで)


2月1日 資本論 第一章 第三節 B全体的な、または展開された価値形態 [資本論]

*以下、簡略化のため文中では、A簡単な価値形態を第Ⅰ形態、B展開された価値形態を第Ⅱ形態、C一般的な価値形態を第Ⅲ形態、D貨幣形態を第Ⅳ形態とします。又,商品Aは相対的価値形態にある商品とし、商品B(その他の商品)は等価形態にある商品とします。

 第Ⅰ形態は、多数の商品が交換されている社会、資本主義社会を前提にして、その中の任意の商品を二つ取り出し、それらの相互関係を分析したものでした。そこでは、商品Aは、使用価値としての姿態を持ち、商品Bはその感性的な姿態にも関わらず価値としての姿態を持つのでした。(このことについて新書版97ページに天秤量りを例にとったマルクスの見事な例えがあります。目に見えない重さという物の属性を測る際、重さの基準片である鉄のその重さだけが重要であり、その感性的な鉄の姿態は無視されるという事です)商品Aは、価値体としての商品Bと等値されることによって、その使用価値とは別の、価値を顕にします。つまり、第一節で分析された商品に内包されていた使用価値と価値が、二つの商品の対立によって外在化するのでした。

 今回の第Ⅱ形態、全体的な、または展開された価値形態では、第Ⅰ形態の文章の最後で「等価形態にある商品は何でも良い」として、次の様に表示されます。
   表現その1
    z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または・・・であり、
   表現その2
    20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 
           または=40ポンドのコーヒー・・・などです。
    また、この価値表現は次のように表わすことが出来ます。
   表現その3
    20エレのリンネル=1着の上着
    20エレのリンネル=10ポンドの茶
    20エレのリンネル=40ポンドのコーヒー
    20エレのリンネル=1クォーターの小麦

 つまり20エレのリンネルに対し、等価形態としてリンネル以外の商品全てが対応しています。リンネルを相対的価値形態とする価値表現が、リンネル以外の全ての商品を等価形態とするように展開されます。

1 展開された相対的価値形態
 第Ⅱ形態では、商品Aに対し、商品B(その他の商品)が等値されますが、全ての商品が価値表現に参加するため、社会的人間労働の凝固体としての価値が初めて全面的に現われます。こうして商品Aは商品社会の一市民として認められると共に、全ての商品価値が商品の具体的・感性的姿態とは区別されるものとして現われてきます。同時に交換によって商品同士の交換比率が規制されるのではなく、逆に価値の大きさが交換比率を規制する、ということが明白になります。(2月1日はここまで)(2月2日、一部修正)(2月4日、さらに修正)

2 特殊的等価形態
(109ー6)「上着、茶、小麦、鉄などという商品は、リンネルの価値表現においては、どれでも等価物として、それゆえ、価値体として通用する。これらの各商品の特定の自然形態は、いまや、他の多くの特殊的等価形態とならんで一つの特殊的等価形態である。同じように、さまざまな商品体に含まれる多様な特定の具体的有用労働は、いまや、ちょうどその数だけの、人間的労働一般の特殊な具現形態または現象形態として通用する。」
 この文章は、第一章を丹念に読んできた方には、これ以上説明を要しないでしょう。ただ続く文章でより明確になるのですが、特殊的等価形態とは何を意味するのか? という事でしょう。(2月2日、ここまで)

3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥
(109-12)「第一に、商品の相対的価値表現は未完成である。なぜなら、その表示の列が決して完結しないからである。一つの価値等式が他の価値等式とつくる連鎖は、新しい価値表現の商品が登場してくるたびに、それによって絶えず引き続き延長されうるものである。」
 それぞれの等価形態は、それぞれ特殊なものであり、相互に関連のない表現である事になります。
   表現その3
    20エレのリンネル=1着の上着
    20エレのリンネル=10ポンドの茶
    20エレのリンネル=40ポンドのコーヒー
 以下、延々と続き、価値表現の連鎖となるだけで、相対的価値形態の価値表現は完成しません。新たな商品が加わればそれは、この連鎖に付け加わるだけです。
(109-14)「第二に、この連鎖は、ばらばらな、様々な種類の価値表現の雑多な寄木細工をなしている。最後にーー当然そうならざるをえないのだがーーどの商品の相対的価値もこの展開された形態で表現されるとすれば、どの商品の相対的価値も、他のどの商品の相対的価値形態とも異なる価値表現の無限の一系列である。」
 すなわち以下のようになります。
    1着の上着=20エレのリンネル
    1着の上着=10ポンドの茶
    1着の上着=40ポンドのコーヒー
      以下、延々と続く
    10ポンドの茶=20エレのリンネル
    10ポンドの茶=1着の上着
    10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー
      以下、延々と続く
 言わばこれらの価値形態は、個別的価値形態を全ての商品に押し広げたものです。ここではすべての商品が価値表現に参加しており、それぞれの商品が独自に相対的価値形態をとることが出来ます。全ての商品が相対的価値形態をとるとすれば、それぞれそれ以外の商品を特殊的等価形態とし、第一の指摘と同じように価値表現は無限の連鎖となります。
(2月4日、ここまで)

(110-2)「展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。ここでは、各個の商品種類の自然形態が、無数の他の特殊的等価形態とならぶ一つの特殊的等価形態であるから、およそ実存しているのは、ただ、互いに排除しあう制限された諸等価形態にすぎない。同じように、どの特殊的等価形態にも含まれている特定の具体的労働種類も、ただ、人間的労働の特殊的な、したがって、尽きることのない「不完全な」現象形態にすぎない。確かに」、人間的労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、あの特殊的現象諸形態の総範囲のうちにもってはいる。しかし、その場合でも、人間的労働は、統一的現象形態をもっていない。」
   相対的価値形態は個々ばらばらな特殊的等価形態によって表現されていますので、完結しないのでした。この欠陥は価値体として相対的価値形態に対応する等価形態に影響します。およそ等価形態はその自然形態で、感性的な姿で対応するのでした。つまり等価形態にある商品は個々ばらばらな姿をしています。このことが意味するのは、実は既に別項で述べているのですが、諸等価形態は相互に何らの関係もなく「互いに排除しあう制限された諸等価形態にすぎない」のです。諸等価形態に現われる人間労働も、したがって統一的な現象形態を持ちえません。

 次は第Ⅱ形態から第Ⅲ形態への移行の文章です。
(110-9)「とはいえ、展開された相対的価値形態は、簡単な価値表現の、すなわち第Ⅰの形態の諸等式の総計からなっているものにほかならない、たとえば」として
   初めにあげた表現3を参照のこと
(110ー14)「ところが、これらの等式はどれも、逆の関連ではまた次のような同じ等式を含んでいる。すなわち」
   1着の上着     =20エレのリンネル
   10ポンドの茶    =20エレのリンネル
   40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル
      以下続く
(111ー1)「実際、もしある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、それゆえ、リンネルの価値を一連の他の商品で表現するとすれば、必然的に、他の多くの商品所有者もまた彼らの商品で交換しなければならず、それゆえ、彼らのさまざまな商品の価値をリンネルと交換しなければならず、それゆえ、彼らのさまざまな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。-こうして、表現2 という列を逆にすれば、すなわちこの列に事実上含まれている逆の関連を表現すれば、次の形態が得られる。」として
   1着の上着
   10ポンドの茶
   40ポンドのコーヒー   =20エレのリンネル
   1クォーターの小麦
   2オンスの金    
 この表現をあげ、第Ⅲ形態に移るのです。

第Ⅱ形態を一応終わります。

但し、2012年の講座では中川先生より、この第Ⅱ形態から第Ⅲ形態への移行には前に説明されたことと齟齬をきたしていると指摘がありました。今それを理解しようと、あるいはその指摘は間違いではないかと思案中です。書けるようになりましたら紹介したいと思います。


8月9日 資本論第一章 第三節 価値形態または交換価値 続き [資本論]

 資本論読解を再開します。資本論カテゴリーの直近の記事が5月24日付ですから、だいぶほったらかしにしてしまいました。まぁー、私の覚えのために書いているので、困る人は誰もいないと思いますが?

前回の続きですが、第三節、Aの3 等価形態です。

 さて初めに、もう一度簡単な価値形態の等式を掲げておきましょう。
    20エレのリンネル(商品A)=1着の上着(商品B)
 この簡単な価値形態の中で、等価形態にある商品B、上着はどのような特徴をもつことになるのか? これがこの項の課題です。

 その前に、今までに解明したことを簡単に振り返っています。
(95ー6)「われわれは次のことを見てきた。1.一商品A(リンネル)は、その価値を種類を異にする一商品Bの使用価値(上着)で表現することによって、商品Bそのものに、一つの独自な価値形態、等価物という形態を押し付ける。2. リンネル商品は、上着が、その身体形態とは異なる価値形態をとることなしに、リンネル商品と等しいとされることにより、それ自身の価値存在を外に現す。したがって、リンネルは、・・・それ自身の価値存在を表現する。3. したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態なのである。」
 簡単な価値形態における等価形態は、貨幣形態の萌芽という事です。

 次に等価形態の「第一の独自性」への橋渡しとして、次の文章があります。
(96ー4)「しかし、上着という商品種類が価値表現において等価物の位置を占めるやいなや、この商品種類の価値の大きさは、価値の大きさとしてのなんらの表現も受け取らない。この商品種類は、価値等式においては、むしろただ一定分量の物の役をつとめるにすぎない。」
 冒頭に掲げた等式のなかで等価形態にある商品は、価値物でなければならないのですが、その価値量は表せないでです。加えて一定分量の物、と言っています。等価形態にある上着の体でもって、リンネルの価値を表現するのです。

●等価形態の第一の独自性
(96ー16)「等価形態の考察にさいして目につく第一の独自性は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。商品の自然形態が価値形態になるのである。」
 上着そのものは価値を持っています。しかしこの価値表現の中で、等価形態という役割を担わされた時には、あくまで相対的価値形態にある商品、リンネルの価値を、その身体、使用価値で表現するのです。使用価値が価値の現象形態になるのです。
 どんな商品もそれ自身として、価値を表わす事は出来ず、他の商品を等価形態にすることによってしか価値を表現することは出来ない、という事はさんざん見てきたところです。ここでマルクスは理解を助ける例えを述べています。棒砂糖の重量を測るために、その重量が規定された鉄片をもって測る、という例です。
(97ー7)から(98ー4)まで、要約すると
 棒砂糖があり、重さがあるが、その重量が分からない。そこで重量が分かっている鉄片をいくつか用意して、天秤の片方に棒砂糖、もう一方に天秤が吊り合うまで鉄片をのせていく。吊りあった時の鉄片の重量が、棒砂糖の重量ということになる。価値表現で言えば、棒砂糖が相対的価値形態、鉄片が等価形態ということになります。
 鉄片は、この関係の中では重量の尺度としての役割を担います。但し類似はここまで、ともマルクスは述べます。と言うのも価値は超自然的属性であり、純粋に社会的なものだからです。リンネルの価値は個別の労働時間ではなく、社会的平均であることを思い出せばわかるでしょう。

●等価形態の謎的性格
(98ー8)「一商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体およびこの身体の諸属性と完全に区別されるものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのであるが、そのことによって、この表現が一つの社会的関係を秘めていることを、この表現そのものが暗示している。」
 リンネルは上着を等価形態に置くことによって、自分の価値を表現するのですが、このことでリンネルは独自の使用価値を持つ物としてだけでなく、価値をもつものとして社会的なものである、という暗示を受けとります。しかし・・・
(98ー11)「等価形態については逆である。等価形態とは、まさに、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの物が、価値を表現し、したがって、生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。確かに、このことが通用するのは、ただ、リンネル商品が等価物としての上着商品に関連させられている内部でのことにすぎない。・・・上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、・・・生まれながらにしてもっているかのように見えるのである。」
 上着は一商品としての使用価値として、衣類としての属性、人を暖かく包むなどの属性をもっています。しかし等価形態という役割を担うとき、それら固有の属性だけでなく、あたかもリンネルの価値を表現するという属性を本来的にもっているようにみえるようになるのです。これが謎的性格です。

●等価形態の第二の独自性
(100ー14)「具体的労働がその反対物の、抽象的人間的労働の現象形態になるということが、等価形態の第二の独自性である。」
 これは、第一の独自性の労働の観点からの言い換えです。使用価値を作る具体的有用労働が、価値を形成する抽象的人間的労働の現象形態になる、ということです。この指摘によって第三の独自性が導かれます。

●等価形態の第三の独自性
(100ー16)「裁縫労働(上着を作る)というこの具体的労働が、区別のない人間的労働の単なる表現として通用することによって、それは、他の労働、すなわちリンエルに含まれている労働との同等性の形態をとるのであり、したがってまた、それは、商品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的労働であるにもかかわらず、しかも直接に社会的な形態にある労働なのである。」
(101ー3)「したがって、私的労働がその反対物の形態、直接に社会的な形態にある労働になるということが、等価形態の第三の独自性である。」
 各々の商品は、私的生産者が市場で売るために作られます。それらの商品は私的労働によって作られます。等価形態にある上着もこの点で同様です。しかしこの価値表現の中では、上着を作る労働は、他の労働と同じであるという形態を受け取る、すなわち社会的労働という形態を受けとるのです。

●アリストテレスの天才と挫折
 5台の寝台=1軒の家
 この等式の中に、アリストテレスは何らかの同等性があることを見抜きました。しかし彼の生きた時代の制約で、この同等性の、量的に比較できる抽象的人間的労働を見いだすことが出来ませんでした。マルクスはアリストテレスの天才を賞賛しながら、彼の生きた時代が奴隷制社会であったことで、価値概念に到達出来なかった、とします。

4. 簡単な価値形態の全体
(105ー2)「商品B(等価形態)にたいする価値関係に含まれている商品A(相対的価値形態)の価値形態を立ち入って考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの自然形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの自然形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって商品のうちに包み込まれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表わされ、この関係の中ではそれの価値が表現されるべき一方の商品(相対的価値形態)は、直接にはただ使用価値としてのみ意義をもち、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品(等価形態)は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ、したがって、一商品の簡単な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値の簡単な現象形態なのである。」
 簡単な価値形態のまとめとなっていますが、長い文章ですね。自然形態という語は、簡単な価値形態の中でのこと、と理解しないと分かりにくいです。というのもリンネルも上着も単純に「自然形態」と言えば、感性的に認識できるそれぞれの身体、使用価値でしかないからです。
 そこで注意深く読むと、商品A(相対的価値形態)の自然形態は使用価値の姿態、商品B(等価形態)の自然形態は価値形態または価値姿態、としての意義を持つと言っています。商品Aは使用価値として、この価値関係に入る、商品Bは価値物、価値姿態として、この価値関係の中で役割を果たす、ということでしょう。
 また、この価値関係のなかでは、一商品に含まれていた使用価値と価値が、二つの商品による外的な対立として現象する、ということです。
(105ー10)「労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対照的」属性として、すなわちその使用物の価値として、表わす歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。それゆえ、こうなるー商品の簡単な価値形態は、同時に労働生産物の簡単な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。」
 労働生産物は、猿から人間に進化して以来、使用対象であり、使用価値でした。労働生産物が商品となるためには、抽象的人間的労働が生産物に対象化される社会の発展が必要でした。商品形態の発展は、価値形態の発展と一致する、ということは、簡単な価値形態は、物々交換の時代の価値形態といえるでしょう。
 しかし、この簡単な価値形態の不十分さはあきらかです。リンネルと上着の関係は、言わば閉じた関係です。上着はリンネルの使用価値から価値を分離する役割しか果たしません。リンネルが上着以外の商品との同等性を表わしはしません。しかし歴史的発展が、こうした閉じた関係を突破して行くことはあきらかです。こうして次の項、B 全体的な、または展開された価値形態へと進みますが、今回はここまでとします。 


5月24日 資本論第一章第三節 価値形態または交換価値 [資本論]

前回の第二節アップから、又時間が立ってしまいました。今回、この第三節も途中で終わることになりますが、ノート・パソコンで書き終わったところまでアップします。又、今回より、資本論からの引用は新日本出版社判からにします。引用は「 」で括り、その前の( )にはそのページ数と行数を記入しています。それでは!

  さて難しい節にかかりました。当のマルクス自身こう言っています。「第三節の価値形態論を別とすれば、本書を難解だと批難することはできないであろう」と。また、青木書店版資本論の翻訳者であった長谷部文男さんは、その著「資本論随想」で、価値形態論について「噛み砕くには前歯が折れそう」(資本論レジュメ集)と書いているそうです。
 初めにこの節を概観してみましょう。この第三節は、ページ数にしても、第一節、第二節の倍もあるのに気がつきます。

 第三節 価値形態または交換価値          (80~)
      導入の文章があります。
  A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態
      20エレのリンネル=1着の上着
   1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
   2 相対的価値形態
    a 相対的価値形態の内実
    b 相対的価値形態の量的規定性
   3 等価形態
   4 簡単な価値形態の全体           (~106) 全27頁
  B 全体的な、または展開された価値形態      (107~)
      20エレのリンネル=1着の上着の他に種々の商品の等価形態が現われる
   1 展開された相対的価値形態
   2 特殊的等価形態
   3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥  (~111) 全5頁
  C 一般的価値形態               (111~)
      Bで相対的価値形態であったリンネルが等価形態になり、等価形態であった種々の商品が
      相対的価値形態にと、ひっくり返される。
   1 価値形態の変化した性格
   2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
   3 一般的価値形態から貨幣形態への移行    (~119) 全9頁
  D 貨幣形態                  (119~121) 全3頁
      Cで等価形態であったリンネルが金に置き換えられる。

 見られるように、この第三節は、全部で42頁ですが、 初めからAの終わりまで、なんと27頁を費やしています。Aの1、価値表現の両極の初めの文章はこうなっています。
(82ー15)「すべての価値形態の秘密は、この簡単な価値形態のうちに潜んでいる。だから、この価値形態の分析には真の困難がある」、ということですから、この部分をなんとかクリアー出来れば、あとは簡単そうに見えます。この節をスルーしたくなる気持ちを抑えて、立ち向かってみましょう。
 そもそもこの節の課題は何でしょうか?

(81ー5)「商品の価値対象性は、どうつかまえたらいいかわからない・・・商品の価値対称性には一原子の自然素材も入り込まない・・・それは価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。」
(81ー9)「・・・商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い起こせば、それが商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずからあきらかである。・・・われわれは、諸商品の交換価値または交換関係(諸商品の社会的関係)から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡をさぐりあてた(第一節、第二節)。いまや、われわれは価値のこの現象形態(価値形態または交換価値)に立ち返らなければならない。」
 第一、第二節の商品の分析の中で、使用価値と価値を見いだしました。そして使用価値を作り出す同じ労働が、具体的有用労働とともに、抽象的人間労働という二重の性格を持ち、その抽象的人間労働(そしてその平均労働)によって、商品に価値を凝固させるということでした。しかしまだ、このままでは依然として、価値は商品に凝固していると言いうるのみで、その価値の形態が如何なるものか、そして私たちの目に見えるものになっていません。

(82ー1)「だれでも・・・諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な自然形態とはきわめていちじるしい対象をなす一つの共通の価値形態、すなわち貨幣形態をもっているということは知っている。」
 「しかし、いまここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも簡単なもっともめだたない姿態から、目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。
 商品世界では、どの商品に対しても共通に価値を表わす貨幣があることは、皆知っています。しかし、この第三節では、交換関係に立ち戻り、貨幣形態が発生する論理を追跡・究明すること、それによって貨幣が何であるか、何故貨幣はすべての商品の価値を表せるのかを、明らかにすることが課題となります。

(82ー11) A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態
      20エレのリンネル=1着の上着
      20エレのリンネルは1着の上着に値する。

 簡単な、個別的な、というのは2種の商品による価値表現であること、偶然的というのは、この2種の商品の関係がたまたま生じたことであること、です。リンネルと上着とせずに、机と包丁でも良いのです。つまり未だ社会的に統一的な価値表現が生まれていない状態を想定しています。
 次にみるように二つの商品の価値表現の、その関係性の内部で、どのような論理が働いているのかを考察するところから始まります。

(82ー14) 1 価値表現の両極ー相対的価値形態と等価形態
 この簡単な価値表現において、’=’、あるいは、’値する’で結ばれたリンネルと上着は、担っている役割が違います。左辺のリンネルは自分の価値を表現するのに右辺の上着を使っています。この左辺のリンネルは「相対的価値形態」にあります。対する右辺の上着はリンネルに価値物として、価値表現を与える役割を果たしています。この右辺の上着は「等価形態」にあります。
 この場合、等価形態にある上着は、この価値関係のなかでは、同時に相対的価値形態であることは出来ません。相対的価値形態にあるリンネルも同時に等価形態であることは出来ません。上着が相対的価値形態であるためには、先の等式をひっくり返して、1着の上着=20エレのリンネルとしなければなりません。マルクスはこう言っています。
(83ー7) 「相対的価値形態と等価形態とは、同じ価値表現の、互いに依存し合い、互いに制約し合う、不可分の契機であるが、同時に互いに排除し合う、あるいは対立し合う、両極端、すなわち両極である。」
 「互いに依存し合う」というのは、一商品は、他の違う一商品と出会い、その商品を等価形態とすることによって、自己の価値表現を行うときに、初めて相対的価値形態となるという事。「互いに排除し合う」というのは、同じ価値表現では、等価形態は同時に相対的価値形態であることは出来ない(その逆も同じ)、という事です。というのも、くどいようですが、この等式で自己の価値を表現しているのは、相対的価値形態であるリンネルだけだからです。
 またこの節では、あくまで「価値表現」が問題になっており、「交換」が成立したことを意味していません。この簡単な価値表現では、交換が成立した途端に、リンネルと上着は、価値表現の両極である、という意味、それぞれの役割を消滅させてしまいます。

(84ー10) 2 相対的価値形態
 a 相対的価値形態の内実
(84ー12)「ある一つの商品の簡単な価値表現が二つの商品のうちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない。」
 考察の初めには、相対的価値形態とは何か、又、等価形態とは何かを、量的関係を度外視して考察しましょう、と言う事です。左辺と右辺、各々の担っている役割を考察するうえでは、それらの量的関係は無視できるし、無視しなければなりません。
●回り道の論理
 この簡単な価値表現では、相対的価値形態のリンネルは、上着の具体的な体、使用価値としての上着の姿を使って、自分の価値を表現しています。対する等価形態の上着は、自らの体を価値として顕現させられ、リンネルに価値表現を与えます。そのことによってリンネルは価値物であることを実証します。つまり、リンネルは上着の体に価値物としての役割を押し付け、その上着と等値されることによって、自らを価値物として表わすのです。言わば、上着という回り道をして、リンネルは価値物として現われるのです。またここで表現されているのはリンネルの価値であり、上着の価値ではありません。
 このことを労働に二重性の観点から言うと、次のごとくです。
(86ー13)「上着が、価値物としてリンネルに等値されることによって、上着に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等値される・・・織布(リンネル)労働との等値は、裁縫(上着)労働を、両方の労働の中の現実に等しいものに、(抽象的)人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。こうした回り道を通ったうえで、織布(リンネル)労働も、それが価値を織り成す限りにおいては、裁縫(上着)労働から区別される特徴を持っていないこと、すなわち、抽象的人間労働であること、が語られるのである。
 二つの商品が、価値表現として等値されるとき、そこではそれぞれの具体的な労働が捨象され、価値を形成する抽象的人間労働が現われるのです。

●商品の「自然形態(使用価値)」が価値を表わすものとなる。
(88ー2)「リンネルの価値関係のなかで、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、同じ性質をもつ物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。だから上着は、ここでは、価値がそれにおいて現われる物として、または手でつかめるその自然形態(使用価値)で価値を表わす物として、通用する。」
(88ー13)「リンネルとの価値関係の中では、上着はただこの面(価値の担い手という面)だけから、それゆえ、体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ボタンをかけたよそよそしい上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。」
 先に価値表現が課題であり、交換は考慮外と述べました。この文章はその立場で読まないと理解できないと思います。キーワードは「通用する」です。簡単な価値表現では、リンネルの価値を、上着が価値物であることによって表現しますが、上着という具体的有用労働が作り出した使用価値でもって姿を現します。つまりリンネルの価値を表現するときには(交換ではなく)、何時でも上着の姿(使用価値)をもって表現できるようになった(通用する)と言う事なのです。

(91ー5) b 相対的価値形態の量的規定性
 a の相対的価値形態の内実では、相対的価値形態、等価形態、それぞれの役割についての考察でした。したがって、それぞれの商品の量については捨象していっこうにかまわない性格の考察でした。
 しかし実際には、商品は、必ずそれぞれの量を持っています。リンネルはエレという単位で、又上着は着という単位でその量を表します。そこで次には、価値表現の両極において、生産力の変動を考慮した時に、価値表現における量が、どのような影響を受けるかを考察します。生産力の変動の原因についての具体的な記述は、本文を参照して下さい。
 また、言うまでもないことですが、相対的価値形態、等価形態それぞれの商品は、生産力が上がれば価値が減少し、生産力が下がれば、価値は増加します。

1. リンネルの価値は変動するが、上着の価値は不変のままの場合
 Aの等式において、リンネルの価値が上下する場合、等価形態の上着の価値は、リンネルの価値に正比例して上下します。
   リンネルの価値が2倍になった場合 20エレのリンネル=2着の上着
   リンネルの価値が2分の1になった場合 20エレのリンネル=2分の1の上着
2. リンネルの価値は不変であるが、上着の価値が上下する場合
 この場合は1と逆で、同じ20エレのリンネルを価値表現するとき、等価形態の上着の価値は、その価値に反比例して
 上下します。
   上着の価値が2倍になった場合 20エレのリンネル=2分のⅠの上着
   上着の価値が2分のⅠになった場合 20エレのリンネル=2着の上着
3.リンネルおよび上着の価値が、同時に同じ方向に、同じ比率で上下する場合
   この場合は、20エレのリンネル=1着の上着のままです。
4. リンネルおよび上着の価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動するか、あるいは反対の方向に
 変動する場合
   この場合は、1から3の応用で簡単に分かります。

ですから、このbにおけるマルクスの結論は、

(94ー3)「こうして、価値の大きさの現実的変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にも余すところなしにも反映されはしない。 一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも、変動しうる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありうる。そして最後に、一商品の価値の大きさと、この価値の大きさの相対的表現が同時に変動しても、この変動が一致する必要は少しもない。」

大変、残念ながら今回はここで終了です。3の等価形態は、現在ノートパソコンで書いたり修正したりと奮闘中というところです。それにしてもその先も難しいなー。特に第四節は!

尚、この第三節、 長すぎることは別として今後訂正がありえます。どこかに誤りが潜んでいるような気がしてしようがありません。ですから、必ず原典に当たって下さい。ご意見を頂ければ幸です。


4月10日 資本論第一章第二節 商品に表される労働の二重性 その2 [資本論]

 このブログの最終更新が1月30日ですから、もう2ケ月以上もほったらかしにしてしまいました。
 The long pause between the first part and the continuation is due to an illness of many years' duration that again and again interrupted my work.
 「初めと続きの間の長い休みは、長年にわたる病気のせいで、これが私の仕事をたび重ねて中断させたのである」(資本論第一版序文)というわけでは全くなくて(笑)、別の方面の活動が大変忙しかった為です。

 それにしても、このブログ、とりわけ「資本論」をこれ以上ほうっておくことは出来ません。というのも資本論講座の方は既に第一編・商品と貨幣を終了し、次回はもう第二編、第四章 貨幣の資本への転化に入ります。新日本出版社版でいうと第一分冊が終了したのです。資本論の読み方、講座の利用の仕方に関わってきますので、急いで追いつかなくてはなりません。

 さて今回は、価値を形成する抽象的人間労働について書くわけですが、その前に、この第二節・商品に表される労働の二重性について、その意義、目的を振り返っておきましょう。前にも書きましたが、間が開いてしまったので。そして又今後の学習方法にも関わりますが、資本論を読み進めていくうえで、各章、各説がどのような目的を持って書かれたかを。よく読み取ることが大事だと思うからです。
 大月書店版56頁、10行目「商品に含まれる労働のこの二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない」
 前節でも商品生産において同一の労働が二つの側面、使用価値を生み出す’有用労働’と、価値を形成する'抽象的人間労働’を持つことは述べられてきました。ここでは、その商品生産社会における労働の二重性について立ち入って考察してみようと言うわけです。決定的な跳躍点の意味は、価値の規定、それを作り出す抽象的人間労働の発見にあると思います。63頁7行目の注16を良く吟味して読むべきでしょう。アダム・スミス等、古典派経済学者は、この発見の直前で踏みとどまってしまったようです。

 さて本題です。 59頁6行目「そこで今度は、使用対象である限りでの商品から、商品ー価値に移ろう」とマルクスは論議を進めます。つまり今までも述べられてきた価値を作り出す労働=抽象的人間労働についてです。
 59頁18行目「労働の有用的性格を無視するとすれば(捨象すれば)、労働に残るものは、それが人間労働力の支出であるということである」
続いて「裁縫労働と織布労働とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも(抽象的)人間労働である」これはおさらいです。

 次が新しい指摘でしょう。単純労働と複雑労働です。
60頁5行目以降、「(この人間的労働は)平均的にだれでも普通の人間が、特別な発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。もちろん、単純な平均労働そのものも、国が違い文化段階が違えばその性格は違うのであるが、しかし、現に在る一つの社会では与えられいる」
 中川先生の講義レジュメでは、単純な平均労働が、このようなものとして出現するのは、「機械制大工業の確立によってである。その意味で一つの歴史的範疇」と言っています。18世紀末にイギリスにおいて産業革命が始まりました。蒸気機関の発明によって、それを動力とする「機械」が生産力を飛躍的に向上させました。それ以前の「マニュファクチュア(工場制手工業)」では、労働者が一工場に集められての生産活動が行われましたが、手にしていたのは「道具」に過ぎませんでした。しかし「機械」の前での労働は極めて単純化され、マルクスの目にもそれが写ったものと思います。詳しくは第12章、分業とマニュファクチュア、および第13章、機械と大工業に待つことにしましょう。

 複雑労働について、マルクス自身が具体的な例を挙げています。
60頁4行目、「ブルジョア社会では将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反してただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが、」として先の文章に続いています。これによれば「複雑労働」とは「指揮・命令労働」あるいは「管理労働」のことなのでしょうか? 何れにしても私はこの「複雑労働」の意味が分かっていません。
 ですからこの「単純労働と複雑労働」については、60頁8行目「より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。このような換算が絶えずおこなわれている、ということは経験の示すところである」ということで現時点では満足せざるを得ません。

 次がこの節の大事なことだと思います。生産力の変動との関連を述べています。
61頁15行目、「商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ認められるとすれば、価値量との関連では、もはやそれ以外には質をもたない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。前の方の場合(具体的有用労働)には労働のどのようにして(How)と、どんな(What)が問題なのであり、後の方の場合(抽象的人間労働)には労働のどれだけ(How much)が、すなわちその継続時間が、問題なのである。」
 したがって生産力の変動が結果することは、次の通りです。
62頁12行目、「生産力は、もちろん、つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表されている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働(抽象的人間労働)に影響することはできないのである。それゆえ、同じ労働(抽象的人間労働)は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。」
 この節ではまだ、資本=賃労働関係は出てきていません。したがって生産力の増大を引き起こす原因についても議論の対象になってはいません。しかし生産力の増大、または減少は使用価値量を増大、または減少を引き起こすこと、それに反して価値量の増大または減少には結果しないことが述べられています。これは後々の資本論の展開にとって萌芽的な議論であり、この節の重要な指摘であると思います。

これで第二節を終わります。原文中の(斜体) は分かり易いように私が加えたものです。ただの「人間労働」でも私の場合抽象的を加えたほうが、私にとってわかりやすいのです。また「労働」となっていても(抽象的人間労働)の場合がありましたので、そのように加えてあります。

 さらに第四編、相対的剰余価値の生産の第13章、機械と大工業に関して、 日本共産党の不破哲三さんが、その著書「資本論と今日の時代」で、松下電器(現・パナソニック)のテレビ工場の例を紹介しています。1970年代の話ですが。このテレビ工場を訪れたポーランドの労働組合「連帯」のワレサ議長は「人間が機械に使われている、こういうことはごめんだ」と言えば、イギリスのエリザベス女王は「世界のどの国、どんな工場に行ったって、働いている人たちはみんな拍手して、歓迎してくれるのに、松下の工場では、だれ一人ふりむくものもいなかった」と怒ったというのです。これはそこで働く労働者のせいではありません。
 「労働時間のすべての気孔を埋め尽くす」(マルクス)資本の横暴さがここにはありました。すなわち労働時間が一日7時間半、秒になおすと2万7千秒、ここに320台のテレビの配線作業にかかる5千7百60回の作業を詰め込んでいる松下のテレビ工場の実体です。
 資本論で言えばまだ先の議論になりますが、今日の日本社会の有り様にも目を配りながら、資本論に取り組みたいものです。

 


資本論第一章第二節 商品に表される労働の二重性 その1 [資本論]

今日は楽しみにしていた東京学習会議主催の資本論講座に参加してきました。沢山の収穫があり、今後が楽しみです。またそこで学んだことからいうと、私の文章も変えざるを得ないのですが、今回の文章は既に書き始めていたものなので、そのまま投稿します。今日学んだことは別に改めて書こうと思います。それでは第一章第二節、商品に表される労働の二重性その一です。

第二節は始まりの文章からすると第一節のおさらいのように見えます。すなわち、商品の分析の結果現われてきた二つの要因、使用価値と価値、そしてそれらを作り出す同一の労働に含まれる二つの形態、具体的有用労働と抽象的労働を簡単に振り返ります。そしてすぐ次の文章になります。これ重要!
56頁10行目、「商品に含まれる労働のこのような二面的な性質は、わたくしがはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学を理解するための枢軸であるから、ここでくわしく説明しなければならない」としてこの説で語られる課題を提示しています。

これはいわゆる労働価値説のことでしょうね? 労働価値説というとアダム・スミスやデービッド・リカードなどが主張していますが、ここでマルクスが言っているように、具体的有用労働と抽象的労働という、同じ労働に含まれる二つの性格について、混同しついに彼らは次の一歩を踏み出せなかったのでしょう。ですが別のところでマルクスも言っていると思いますが、彼らは多くの俗流「経済学者」とは違っていたと思います。よく勉強してから改めて書こうと思いますが、彼らの態度は「科学的」ではなかったかと私は思うのです。

さて本文に戻りましょう。

56頁14行目、「「二つの商品、たとえば1着の上着と10エルレのリンネルをとってみよう。前者は後者の2倍の価値をもつものとすれば、10エルレのリンネル=Wであれば、1着の上着=2Wである」
ここで二つの商品の価値の比率を問題にしているように見えるのにも関わらず、この文章のあとは延々と使用価値と具体的有用労働についての文章が続いています。これを読まされていると、先のW、2Wのことなどすぐに忘れてしまいます。が、ここはぐっとこらえて、続く文章を注意深く読んでいきましょう。

56頁16行目、「使用価値・・・を生産するためには、一定種類の生産的活動が必要である。この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている」
これは使用価値を生産する活動は様々な要素によって規定されている合目的的な活動だと言うことでしょう。
「われわれはこれを簡単に有用労働と呼ぶ」というのはお馴染みのはず。
「上着とリンネルとは・・・同じ使用価値と同じ使用価値が交換されることはないのである」まで、これもおさらいですね。しかしまたここでは、使用価値としては、それ自身を比較しての交換は成り立たないことを含意しているように思えます。これもおさらいですが。 次が使用価値についての新しい展開です。

57頁8行目、「いろいろに違った使用価値、または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体ー社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である」
現在、用途別に大別したとしても、実にさまざまな商品があふれています。食品、衣料品、奢侈品等など。その一つ、食品をとってみましょう。生産活動の出発点としての原材料は同じでも、最終製品がパンであるか、クッキーであるかで専門の生産者が違います。衣料品についても、カシミヤ製品と、今はあまり使われなくなりましたが、冷たい海や山で着る未脱脂のセーターも、専門の生産者がいることでしょう。衣料品生産というカテゴリー、つまり属は同じでも、最終製品が違えば生産活動としては種が違ってきます。

先の文章に続いて「商品生産が社会的分業の条件であるのではない」として次の文章、「もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。」次が大変重要! 一つの結論ですからね。「ただ、独立に行なわれていて互いに依存しあっていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである」

ところで生産力が大変低く、狩猟と採集によって食料を確保していた時代、一人の人間が弓、矢、あるいは槍を「生産」し、またそれを使って狩猟(生産)していた時代を思い浮かべてみましょう。こうした社会では分業はおそらく「狩猟」と「採集」にしか現われていなかったでしょう。一人で「狩猟」に関わるすべての生産的労働をしていたのです。また数十人または十数人の1グループ(つまり生産力を一定の水準に保つための人数)を養う為には食料は全員に公平に分けなければなりませんでした。つまりこうした社会では生産物は商品ではありませんでした。これと比較すると商品生産社会は分業の発達した社会であることがわかります。一独立生産者はパンは作りますが、彼が必要な衣服や家は、他の独立生産者から、商品として調達しなければなりません。

次の文章は目先を変えた文章になっています。

58頁7行目、「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然の間の物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然条件である」
ここでは資本主義社会の富としての商品の考察から目を転じています。人間は生きるために、また子孫を生み育てるためにどんな社会でも働かなければならない。自然に働きかけなければならない。どんな社会の労働=生産活動であっても、自然の中に有用なものを見つけ、それに手を加えてきたことを述べています。

私たちはスーパーに行って肉を買いますが、その背後には必ず牛なり、豚なりを屠殺している労働があります。牛や豚は飼育されていますが、元はと言えば自然の中の生き物でした。又金属を熱処理して、日本刀や自動車部品や鍋釜を作るのも、その前に鉱山で掘り出さなければなりません。そして不要な物(そう見える物かも知れない)、余ったものを大量に捨てています。「物質代謝」に込められている内容は、このように内容豊富なのです、と私は思います。人間(社会を通じた)と自然の関係を示す重要な指摘が萌芽として現れています。資本論はこの様に社会内部の関係にとどまらない内容を持っていることに、気づかなければなりませんね。

次の文章も、歴史貫通的な有用労働と自然法則の利用について述べています。
58頁10行目、「使用価値である上着やリンネルなど、簡単に言えばいろいろな商品体は、・・・有用労働の総計を取り去ってしまえば、あとには常に或る物質的な土台が残るが、それは人間の助力無しに天然に存在するものである。人間は、彼の生産において、ただ自然そのものがやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。この、形をつける労働そのもにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただ一つの源泉なのではない。ウィリアム・ペティが言うように、、、、、、

あっ、何時も見ている「イ・サン」が始まっちゃう! しばらく中断!

あー、ソンヨンはどうなっちゃうの? というところでイ・サンは終わっちゃいました。と言う訳で気を引き締めて続きへ

労働は素材的富の父であり、土地はその母である」

これには私はゾクゾクしますけど、皆さんは? と言うのもここも経済学の周辺にマルクスが目を向けているからです。生産活動はまったく自然に依拠しているということ。労働はあるがままの自然を、原材料の形態を変える(分離と結合)作業であることを、マルクスは言っています。極端と思われる例をあげましょう。CERNと言う研究所をご存知の方は最近多いのではないでしょうか? ここで最近光の速度を越える素粒子が発見されたというニュースが世界を駆け巡りました。世界最大の素粒子物理学の研究所です。その地下には全周なんと27KMという円形加速器が国境をまたいで設置されています。光の速度を越えるということは20世紀初めのアインシュタインの相対性理論を覆す理論が生まれる可能性を孕むからです。しかしまた、「発見」と言われているように自然法則とは別に人間が作り出したものではないのです。理論物理学・素粒子物理学者たちが研究を重ね、ある粒子をこれこれの別の粒子に高速で衝突させれば、別の粒子が出現するという、自然法則に基づく予想をたてての実験だと思うからです。つまりこんな夢みたいな発見でも、マルクスが言っているように自然に手を加えただけなのです。

又マルクスが労働の過程でも「自然力に支えられている」と言っています。先の円形加速器は(実はこの辺は素人の推測です)粒子を磁力で曲げているのではと思います。一見人間が新に作り出したように見えても自然の力を使っているのです。又いやな話ですが、ウランの分離法です。様々な分離法がありますが、その一つに遠心分離法があります。ウラン238とウラン235のわずかな比重の違いを利用するのですが、高速回転する円筒の中にフッ化ウランを入れます。自然の法則である遠心力を利用しているのです。

逆にこの世に摩擦がなかったら織物は出来ないのではないか、等と考えるとマルクスの言うことが理解できると思うのですが如何でしょうか?

最後です。もう疲れたので引用は書きません。「土地は母である」でパラグラフは終わりますが、その次にかかれている注釈にも私は感動を覚えました。ピエトロ・ヴェリという経済学者が書いた文章です。価値の問題では弱点を持っていたものの、労働についての見事な見解が表明されています。先にアダム・スミスも科学的な態度を持っていたのでは、と書きました。マルクスは自分に先行した多くの優れた経済学者から謙虚に学び、彼らの理論を頭一つ抜きん出たのです。そしてそれが如何に大きな経済学の進歩をもたらしたことか!

資本論学習を再開して良かったと思える日でした。

残念ながら第二節も使用価値で中断します。価値は次回に回しますが、29日の資本論講座での対象になっていますので、その前には精読しておかなければなりません。

それでは皆さん、おやすみなさい。

 


釈然としない感じ! [資本論]

先の交換価値の文書の最後で、自分自身でもよくわからない、捕え所のないことを書いてしまいました。海の民と山の民の交換、エネルギー支出について等、私なりの例えを入れて書いてみましたが、第一節を読み終わって筋をたどってみても、何となく釈然としない感覚を覚えるのです。マルクスの文章は「そうか分かったぞ」という納得感をなかなか与えてくれません。これはどうしたことでしょう? マルクス自身も第一版の序文で言っています。「なにごとも初めが困難だということは、どの科学の場合にも言えることである。それゆえ、第一巻、ことに商品の分析を含む節の理解は、最大の困難となるであろう。」と。 第一節の文章は一部分かりにくいところはあるが、何とか筋を辿れたのでは、と思います。しかしそれが何を意味するかは、先に進まないと見えてきません。その先でさえ、同じような感じを味わうであろう事は見えてしまいました。 それだけでなく今第二節を何回も読んでいるのですが、先に進むたびに難しくなっていくような! 第二節「商品に表される労働の二重性」、第一節のおさらいかと思うと、とんでもない! ここでは新しい概念が出てきます。すなわち「分業」、有用労働は自然法則に従わざるを得ない等など。 15日から東京学習会議主催の第一部の学習会が始まります。質問は具体的にとは思いますが、こうした釈然としない感じがどこからくるのかも率直に聞いてみようと思います。 エベレストへの登山活動も今キャラバンが始まったばかり。エベレストはその姿さえ見えない。酸素はドンドン薄くなり、ルートは危険が増すばかり、道を踏み外さないよう頂上を極めたいですね。 今日は高尾山で東北大震災の支援募金活動をしてきました。そうした記事をはさみながらも、「資本論」の次回こそ本文に入ります。

資本論第一章第一節 商品の二つの要因 続き [資本論]

資本論レジュメの2回目です。いやいやレジュメとは言えなくなってきました。私が読み取ったことを形式自由で書き連ねます。前回、マルクスの原文は「 」でくくり、私のコメントは’#’で始める、こうした書き方で進めます、と書きましたが、どうやらそれは大分煩雑になりそうです。そこで原文の全文を追い、私なりに読み取ったこと、疑問などを自由に書いていこうと思います。「 」くくりと’#’は、どこかに現われるかも知れません。では

第一章第一節の続き 交換価値、商品の二つの要因のもう一方です。先に見たように商品は使用価値を持っています、しかしまた、交換されなければ商品とはみなされません。そこで商品の交換を観察してみましょう。初めに見えるのは一つの商品である塩1表が他の商品と交換される際の交換割合です。例えば交換対象が毛皮であれば10枚、とうもろこしならば50本、絨毯であれば1枚、羊2頭等など、お気づきでしょうがマルクスの原文を読み変えています。山の民と海辺の民との商品交換(物々交換)を想定しています。

ヒマラヤのどこかに住む人たちが1年に1度、生活必需品である塩を手に入れるために隊商を組み、何日もかけて山越えをする番組を見たせいです。中近東のあたりにもこうした隊商を組んで危険地帯を越えていく番組があったような? 断っておきますが、マルクスが問題にしているのは、そうした物々交換に現れている歴史的な商品ではなく、今この時、無数に行なわれている商品交換の現実を切り取ったもの、すなわち論理的な商品だということです。戦前そうした論争があった(櫛田民蔵さんと河上肇さん?)と聞いていますが、私は論理的な商品だと解釈しています。

さてそうすると交換価値とは、諸商品の交換割合として現われていることになります。すなわち先の例で言うと、Ⅰ:10、Ⅰ:50、1:1、1:2等。またここでは諸商品の量的な割合が問題になっており、質的な相違、すなわち使用価値は捨象されています。すなわち商品の感性的な形、また属性は捨象されているのです。商品の交換は使用価値が違っていないと成立しませんよね。塩1表:塩1表の交換はありえません。

次に「塩1表」と「毛皮10枚」に注目して見ましょう。「塩1票=毛皮10枚」 これの意味するところは? 「=」として同一の交換価値を持つのはどういう分けでしょう。二つの全く違う商品・属性の中に目には見えないが何か共通するものがある、と言うことですね。マルクスは言います。「それは共に労働生産物だ」という事です。しかし又この労働生産物を作る労働そのものも、その姿を変えています。すなわち、塩を作る労働は、砂地(?)に海水を何回も何回も運んできては撒きます。そうして太陽の力によって水分を蒸発させ、どんどん塩分の濃度を濃くしていって作ります。(勿論、現代では違うでしょうが) 片や毛皮はどうでしょう。まずは猟場に言って動物を捕らえます。銃を使うか、弓矢か、あるいは罠を仕掛けるか、いろいろあるでしょう。次に捕らえてきた動物の皮を剥ぐ、それを木枠にピンと張って天日で乾燥させてつくります。(鞣す、と言う工程がありますが良く知りません) このように労働と言っても二つの労働の形、手順は全く異なっています。これでは両者の労働が同一であるとは言えません。ここでマルクスはどう言っているでしょう。

52頁2行目より「労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的な形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に還元されているのである」

「抽象的人間労働」とは何か? 唯物論者のマルクスにして観念の産物なのか? いやそうではないでしょう。脳によって合目的的にコントロールされた筋肉の「エネルギー支出」だと考えれば良いと思います。ちょっと脱線(?)、人間は炭水化物を摂取します。消化の過程でそれは糖になります。これを筋肉に送りグリコーゲンとして蓄えられます、これを呼吸で取り込まれた酸素によって酸化(つまり燃焼)させます。この時にエネルギーが生み出されます。この過程は体内では実に複雑なものです。興味のある方は「筋肉エネルギー」で検索して見てください。

 52頁6行目「そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう・・・その支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもなく・・・それらに共通な社会的実体として、これらのものは価値ー商品価値なのである」

こうしてマルクスは目で見ることの出来る交換価値の背後に潜んでいる「価値」を導き出します。それでは価値とは何か、マルクスはさらに論を進めます。

52頁17行目「だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた一時間とか一日というような一定の時間部分をその度量標準としている。」

ここで町の豆腐屋さんを思い描いてみましょう。もう中々町中では見られなくなりましたが。彼らは朝早く起き仕事にかかります。一軒の店では熟練の親父さんが、息子さんの助けを借りて、てきぱきと作っています。もう一軒の店では跡取り息子が、親父さんに後で教えられながら作っています。段取りが悪く、又次の手順に移るのもモタモタしていたおかげで、はじめの店の倍の時間がかかってしまいました。先のマルクスの言っていることに従うと労働の量は後の店の豆腐の方が価値が大きくなってしまいます。

53頁4行目「しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは同じ人間労働力とみなされるのである。・・・以下(ここはご自分で読んで下さい)それ以前の価値の半分に低下したのである」まで。

個別的労働力は個人の能力によっても違いますが、機械の導入によって劇的に違ってしまうこともあります。しかし一商品に現される価値=労働力は社会的平均労働力とみなされ、同じ価値をもつとされます。「だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわちその使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである」

こうして「社会的必要労働時間」を導き出す事によって、一商品と他の商品の価値を比較することが出きるようになるのです。また労働時間は、労働の生産力(機械の発明と利用)が変動すれば、その都度変わります。大豆をすり潰すのに人力でやるか、機械でやるか、あるいは今の話題でいうと、豊富なウラン鉱山と貧弱なウラン鉱山では貧弱な方は後者の方が同じ量を産出するのに時間がかかります。またウラン238からウラン235を抽出する新しい方法が見つかったら、すなわち労働の生産力が変わります。カナダ・アルバータ州では、石油の価格が上がったのでオイルサンド開発に拍車がかかっています。コストがかかり見逃されていたオイルサンドには通常の方法で産出される原油の二倍の量があると見込まれています。いずれも嫌な話題でした。・・生産方法の進歩や様々な事情の変化で同一商品の同一の量の価値は変化する、ということです。

この節の最後、55頁10行目「ある物は、価値でなくても使用価値であることがありうる」 これは資本論番外編で書きました。 また「商品でなくとも、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。」 

さおり織という手芸があるそうです。それを趣味にしている方がいらっしゃいます。自分自身の欲望を満足させるだけでなく、他の人にあげることもあるでしょう。他人の満足のためとは言え、これも商品ではないですね。このパラグラフで重要なのは次です。

55頁13合目「商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。(しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税も穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない) 括弧内はエンゲルスの挿入! 最後に、どんな物も、使用価値であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、従って価値をも形成しないのである」

卑近な例ですが、禁煙パイポ、まだ細々と売られているようです。 今は様々禁煙方法があるので、いつかは姿を消すかも知れません。こうした一時的に商品になり、売られ、何時も間にか姿を消した物がたくさんあるのではないでしょうか? 他方昔ながらの方法で作られ、売られている亀の子たわしがあります。何れにしても、日々生み出され交換の中に入って行き、消滅していく商品の何と多いことか! 

この節の感想

商品の二要因 使用価値と価値を読んで思うことです。まず第一に、マルクスが経済学研究を行なったのはイギリスだと言うこと。資本主義社会の建設が初めに始まった国、イギリス。イングランド銀行の創設も早かった。要するに商品交換が全面的に展開する社会、イギリスでマルクスは研究したのでした。蒸気機関の発明・発達による産業革命が起こり、生産力の発展が怒涛のように進みました。18世紀初めのマイケル・ファラデーの電磁誘導の発見(モーターや発電機に応用される)から、18世紀の後半には発電所が建設されていました。初めはおもちゃのようであった電動モーターも18世紀後半には、アルプス・アイガーからメンヒに至る鉄道トンネル建設に利用されるまでに発達しました。この節の内容としては言い過ぎの感想でしょうが、変化・発展するのが多い方が観察しやすいのではないでしょうか? それとやはり抽象・捨象ということ、現象の背後に潜む本質を探る科学的な方法の開発でしょう。私は弁証法には疎いのですが、いずれ学ばなければならないでしょう。

これを書くのに大変時間がかかってしまいました。まだこの節から学ばなければならない事は、沢山あるのかも知れません。でもここで次に進むことにします。まずは資本論そのものを精読しなければと思います。同時に矛盾するかもしれませんが、理解が未熟であっても、 とにかく書いてみること、その中で理解の不十分さを知ることが出来ると思うのです。

来年1月15日からの資本論講義を受ける予定ですが、それを楽しみにしています。他の学習者の方々との討論、 交流を通じてより深く資本論を理解できるようになると思っているからです。ではでは

 


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