資本論第一章第一節 商品の二つの要因 続き [資本論]

資本論レジュメの2回目です。いやいやレジュメとは言えなくなってきました。私が読み取ったことを形式自由で書き連ねます。前回、マルクスの原文は「 」でくくり、私のコメントは’#’で始める、こうした書き方で進めます、と書きましたが、どうやらそれは大分煩雑になりそうです。そこで原文の全文を追い、私なりに読み取ったこと、疑問などを自由に書いていこうと思います。「 」くくりと’#’は、どこかに現われるかも知れません。では

第一章第一節の続き 交換価値、商品の二つの要因のもう一方です。先に見たように商品は使用価値を持っています、しかしまた、交換されなければ商品とはみなされません。そこで商品の交換を観察してみましょう。初めに見えるのは一つの商品である塩1表が他の商品と交換される際の交換割合です。例えば交換対象が毛皮であれば10枚、とうもろこしならば50本、絨毯であれば1枚、羊2頭等など、お気づきでしょうがマルクスの原文を読み変えています。山の民と海辺の民との商品交換(物々交換)を想定しています。

ヒマラヤのどこかに住む人たちが1年に1度、生活必需品である塩を手に入れるために隊商を組み、何日もかけて山越えをする番組を見たせいです。中近東のあたりにもこうした隊商を組んで危険地帯を越えていく番組があったような? 断っておきますが、マルクスが問題にしているのは、そうした物々交換に現れている歴史的な商品ではなく、今この時、無数に行なわれている商品交換の現実を切り取ったもの、すなわち論理的な商品だということです。戦前そうした論争があった(櫛田民蔵さんと河上肇さん?)と聞いていますが、私は論理的な商品だと解釈しています。

さてそうすると交換価値とは、諸商品の交換割合として現われていることになります。すなわち先の例で言うと、Ⅰ:10、Ⅰ:50、1:1、1:2等。またここでは諸商品の量的な割合が問題になっており、質的な相違、すなわち使用価値は捨象されています。すなわち商品の感性的な形、また属性は捨象されているのです。商品の交換は使用価値が違っていないと成立しませんよね。塩1表:塩1表の交換はありえません。

次に「塩1表」と「毛皮10枚」に注目して見ましょう。「塩1票=毛皮10枚」 これの意味するところは? 「=」として同一の交換価値を持つのはどういう分けでしょう。二つの全く違う商品・属性の中に目には見えないが何か共通するものがある、と言うことですね。マルクスは言います。「それは共に労働生産物だ」という事です。しかし又この労働生産物を作る労働そのものも、その姿を変えています。すなわち、塩を作る労働は、砂地(?)に海水を何回も何回も運んできては撒きます。そうして太陽の力によって水分を蒸発させ、どんどん塩分の濃度を濃くしていって作ります。(勿論、現代では違うでしょうが) 片や毛皮はどうでしょう。まずは猟場に言って動物を捕らえます。銃を使うか、弓矢か、あるいは罠を仕掛けるか、いろいろあるでしょう。次に捕らえてきた動物の皮を剥ぐ、それを木枠にピンと張って天日で乾燥させてつくります。(鞣す、と言う工程がありますが良く知りません) このように労働と言っても二つの労働の形、手順は全く異なっています。これでは両者の労働が同一であるとは言えません。ここでマルクスはどう言っているでしょう。

52頁2行目より「労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的な形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に還元されているのである」

「抽象的人間労働」とは何か? 唯物論者のマルクスにして観念の産物なのか? いやそうではないでしょう。脳によって合目的的にコントロールされた筋肉の「エネルギー支出」だと考えれば良いと思います。ちょっと脱線(?)、人間は炭水化物を摂取します。消化の過程でそれは糖になります。これを筋肉に送りグリコーゲンとして蓄えられます、これを呼吸で取り込まれた酸素によって酸化(つまり燃焼)させます。この時にエネルギーが生み出されます。この過程は体内では実に複雑なものです。興味のある方は「筋肉エネルギー」で検索して見てください。

 52頁6行目「そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう・・・その支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもなく・・・それらに共通な社会的実体として、これらのものは価値ー商品価値なのである」

こうしてマルクスは目で見ることの出来る交換価値の背後に潜んでいる「価値」を導き出します。それでは価値とは何か、マルクスはさらに論を進めます。

52頁17行目「だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた一時間とか一日というような一定の時間部分をその度量標準としている。」

ここで町の豆腐屋さんを思い描いてみましょう。もう中々町中では見られなくなりましたが。彼らは朝早く起き仕事にかかります。一軒の店では熟練の親父さんが、息子さんの助けを借りて、てきぱきと作っています。もう一軒の店では跡取り息子が、親父さんに後で教えられながら作っています。段取りが悪く、又次の手順に移るのもモタモタしていたおかげで、はじめの店の倍の時間がかかってしまいました。先のマルクスの言っていることに従うと労働の量は後の店の豆腐の方が価値が大きくなってしまいます。

53頁4行目「しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは同じ人間労働力とみなされるのである。・・・以下(ここはご自分で読んで下さい)それ以前の価値の半分に低下したのである」まで。

個別的労働力は個人の能力によっても違いますが、機械の導入によって劇的に違ってしまうこともあります。しかし一商品に現される価値=労働力は社会的平均労働力とみなされ、同じ価値をもつとされます。「だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわちその使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである」

こうして「社会的必要労働時間」を導き出す事によって、一商品と他の商品の価値を比較することが出きるようになるのです。また労働時間は、労働の生産力(機械の発明と利用)が変動すれば、その都度変わります。大豆をすり潰すのに人力でやるか、機械でやるか、あるいは今の話題でいうと、豊富なウラン鉱山と貧弱なウラン鉱山では貧弱な方は後者の方が同じ量を産出するのに時間がかかります。またウラン238からウラン235を抽出する新しい方法が見つかったら、すなわち労働の生産力が変わります。カナダ・アルバータ州では、石油の価格が上がったのでオイルサンド開発に拍車がかかっています。コストがかかり見逃されていたオイルサンドには通常の方法で産出される原油の二倍の量があると見込まれています。いずれも嫌な話題でした。・・生産方法の進歩や様々な事情の変化で同一商品の同一の量の価値は変化する、ということです。

この節の最後、55頁10行目「ある物は、価値でなくても使用価値であることがありうる」 これは資本論番外編で書きました。 また「商品でなくとも、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。」 

さおり織という手芸があるそうです。それを趣味にしている方がいらっしゃいます。自分自身の欲望を満足させるだけでなく、他の人にあげることもあるでしょう。他人の満足のためとは言え、これも商品ではないですね。このパラグラフで重要なのは次です。

55頁13合目「商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。(しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税も穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない) 括弧内はエンゲルスの挿入! 最後に、どんな物も、使用価値であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、従って価値をも形成しないのである」

卑近な例ですが、禁煙パイポ、まだ細々と売られているようです。 今は様々禁煙方法があるので、いつかは姿を消すかも知れません。こうした一時的に商品になり、売られ、何時も間にか姿を消した物がたくさんあるのではないでしょうか? 他方昔ながらの方法で作られ、売られている亀の子たわしがあります。何れにしても、日々生み出され交換の中に入って行き、消滅していく商品の何と多いことか! 

この節の感想

商品の二要因 使用価値と価値を読んで思うことです。まず第一に、マルクスが経済学研究を行なったのはイギリスだと言うこと。資本主義社会の建設が初めに始まった国、イギリス。イングランド銀行の創設も早かった。要するに商品交換が全面的に展開する社会、イギリスでマルクスは研究したのでした。蒸気機関の発明・発達による産業革命が起こり、生産力の発展が怒涛のように進みました。18世紀初めのマイケル・ファラデーの電磁誘導の発見(モーターや発電機に応用される)から、18世紀の後半には発電所が建設されていました。初めはおもちゃのようであった電動モーターも18世紀後半には、アルプス・アイガーからメンヒに至る鉄道トンネル建設に利用されるまでに発達しました。この節の内容としては言い過ぎの感想でしょうが、変化・発展するのが多い方が観察しやすいのではないでしょうか? それとやはり抽象・捨象ということ、現象の背後に潜む本質を探る科学的な方法の開発でしょう。私は弁証法には疎いのですが、いずれ学ばなければならないでしょう。

これを書くのに大変時間がかかってしまいました。まだこの節から学ばなければならない事は、沢山あるのかも知れません。でもここで次に進むことにします。まずは資本論そのものを精読しなければと思います。同時に矛盾するかもしれませんが、理解が未熟であっても、 とにかく書いてみること、その中で理解の不十分さを知ることが出来ると思うのです。

来年1月15日からの資本論講義を受ける予定ですが、それを楽しみにしています。他の学習者の方々との討論、 交流を通じてより深く資本論を理解できるようになると思っているからです。ではでは

 


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u-ko

続編アップ、ご苦労様です。今後、活用させて頂きます。
「ヨセミテの大岩壁に挑戦」をSAORIKO日記で紹介しました。
いよいよ埼玉の「資本論講座」が1/8からスタートします。
第1回目は、「資本論」ガイダンス-序文- です。
お互いに頑張りましょう。
by u-ko (2011-12-30 11:55) 

メタボ親父

あらあら、しばらく自分のブログを見ないうちにコメントを頂いていたのですね。有難うございます。資本論学習、お互い頑張りましょう。こちらは15日からですが、序文だけ何だろうか? 第一部を12回でとは初回はどこまでやるんだろう? どこまで読んでおけばよいのだろうと今から緊張しております。
ブログの方は私の雑学的趣味に応じて、いろいろ書いていこうと思います。資本論だけでは疲れがたまりそうなので。ではでは 今年もよろしくお願いいたします。
by メタボ親父 (2012-01-04 00:49) 

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