4月10日 資本論第一章第二節 商品に表される労働の二重性 その2 [資本論]

 このブログの最終更新が1月30日ですから、もう2ケ月以上もほったらかしにしてしまいました。
 The long pause between the first part and the continuation is due to an illness of many years' duration that again and again interrupted my work.
 「初めと続きの間の長い休みは、長年にわたる病気のせいで、これが私の仕事をたび重ねて中断させたのである」(資本論第一版序文)というわけでは全くなくて(笑)、別の方面の活動が大変忙しかった為です。

 それにしても、このブログ、とりわけ「資本論」をこれ以上ほうっておくことは出来ません。というのも資本論講座の方は既に第一編・商品と貨幣を終了し、次回はもう第二編、第四章 貨幣の資本への転化に入ります。新日本出版社版でいうと第一分冊が終了したのです。資本論の読み方、講座の利用の仕方に関わってきますので、急いで追いつかなくてはなりません。

 さて今回は、価値を形成する抽象的人間労働について書くわけですが、その前に、この第二節・商品に表される労働の二重性について、その意義、目的を振り返っておきましょう。前にも書きましたが、間が開いてしまったので。そして又今後の学習方法にも関わりますが、資本論を読み進めていくうえで、各章、各説がどのような目的を持って書かれたかを。よく読み取ることが大事だと思うからです。
 大月書店版56頁、10行目「商品に含まれる労働のこの二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない」
 前節でも商品生産において同一の労働が二つの側面、使用価値を生み出す’有用労働’と、価値を形成する'抽象的人間労働’を持つことは述べられてきました。ここでは、その商品生産社会における労働の二重性について立ち入って考察してみようと言うわけです。決定的な跳躍点の意味は、価値の規定、それを作り出す抽象的人間労働の発見にあると思います。63頁7行目の注16を良く吟味して読むべきでしょう。アダム・スミス等、古典派経済学者は、この発見の直前で踏みとどまってしまったようです。

 さて本題です。 59頁6行目「そこで今度は、使用対象である限りでの商品から、商品ー価値に移ろう」とマルクスは論議を進めます。つまり今までも述べられてきた価値を作り出す労働=抽象的人間労働についてです。
 59頁18行目「労働の有用的性格を無視するとすれば(捨象すれば)、労働に残るものは、それが人間労働力の支出であるということである」
続いて「裁縫労働と織布労働とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも(抽象的)人間労働である」これはおさらいです。

 次が新しい指摘でしょう。単純労働と複雑労働です。
60頁5行目以降、「(この人間的労働は)平均的にだれでも普通の人間が、特別な発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。もちろん、単純な平均労働そのものも、国が違い文化段階が違えばその性格は違うのであるが、しかし、現に在る一つの社会では与えられいる」
 中川先生の講義レジュメでは、単純な平均労働が、このようなものとして出現するのは、「機械制大工業の確立によってである。その意味で一つの歴史的範疇」と言っています。18世紀末にイギリスにおいて産業革命が始まりました。蒸気機関の発明によって、それを動力とする「機械」が生産力を飛躍的に向上させました。それ以前の「マニュファクチュア(工場制手工業)」では、労働者が一工場に集められての生産活動が行われましたが、手にしていたのは「道具」に過ぎませんでした。しかし「機械」の前での労働は極めて単純化され、マルクスの目にもそれが写ったものと思います。詳しくは第12章、分業とマニュファクチュア、および第13章、機械と大工業に待つことにしましょう。

 複雑労働について、マルクス自身が具体的な例を挙げています。
60頁4行目、「ブルジョア社会では将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反してただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが、」として先の文章に続いています。これによれば「複雑労働」とは「指揮・命令労働」あるいは「管理労働」のことなのでしょうか? 何れにしても私はこの「複雑労働」の意味が分かっていません。
 ですからこの「単純労働と複雑労働」については、60頁8行目「より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。このような換算が絶えずおこなわれている、ということは経験の示すところである」ということで現時点では満足せざるを得ません。

 次がこの節の大事なことだと思います。生産力の変動との関連を述べています。
61頁15行目、「商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ認められるとすれば、価値量との関連では、もはやそれ以外には質をもたない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。前の方の場合(具体的有用労働)には労働のどのようにして(How)と、どんな(What)が問題なのであり、後の方の場合(抽象的人間労働)には労働のどれだけ(How much)が、すなわちその継続時間が、問題なのである。」
 したがって生産力の変動が結果することは、次の通りです。
62頁12行目、「生産力は、もちろん、つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表されている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働(抽象的人間労働)に影響することはできないのである。それゆえ、同じ労働(抽象的人間労働)は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。」
 この節ではまだ、資本=賃労働関係は出てきていません。したがって生産力の増大を引き起こす原因についても議論の対象になってはいません。しかし生産力の増大、または減少は使用価値量を増大、または減少を引き起こすこと、それに反して価値量の増大または減少には結果しないことが述べられています。これは後々の資本論の展開にとって萌芽的な議論であり、この節の重要な指摘であると思います。

これで第二節を終わります。原文中の(斜体) は分かり易いように私が加えたものです。ただの「人間労働」でも私の場合抽象的を加えたほうが、私にとってわかりやすいのです。また「労働」となっていても(抽象的人間労働)の場合がありましたので、そのように加えてあります。

 さらに第四編、相対的剰余価値の生産の第13章、機械と大工業に関して、 日本共産党の不破哲三さんが、その著書「資本論と今日の時代」で、松下電器(現・パナソニック)のテレビ工場の例を紹介しています。1970年代の話ですが。このテレビ工場を訪れたポーランドの労働組合「連帯」のワレサ議長は「人間が機械に使われている、こういうことはごめんだ」と言えば、イギリスのエリザベス女王は「世界のどの国、どんな工場に行ったって、働いている人たちはみんな拍手して、歓迎してくれるのに、松下の工場では、だれ一人ふりむくものもいなかった」と怒ったというのです。これはそこで働く労働者のせいではありません。
 「労働時間のすべての気孔を埋め尽くす」(マルクス)資本の横暴さがここにはありました。すなわち労働時間が一日7時間半、秒になおすと2万7千秒、ここに320台のテレビの配線作業にかかる5千7百60回の作業を詰め込んでいる松下のテレビ工場の実体です。
 資本論で言えばまだ先の議論になりますが、今日の日本社会の有り様にも目を配りながら、資本論に取り組みたいものです。

 


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