2月14日 資本論第一章 第3節 C一般的価値形態、D貨幣形態 [資本論]

 *前回の書き方についてのお断りに加えて、資本論本文からの引用を太字で表わします。

  第Ⅰ形態、第Ⅱ形態の考察を通じて、価値表現の発展、その仕組みを見てきました。この第Ⅲ形態で価値形態の性格が変化し、貨幣形態へ近づいていきます。
 第Ⅲ形態の一般的価値形態では、前回の最後で書いたように次の表現で表れます。
    1着の上着
    10ポンドの茶
    40ポンドのコーヒー =20エレのリンネル
    1クォーターの小麦
    2オンスの金
1 価値形態の変化した性格
(112-2)「商品は、それぞれの価値を、(1)ただ一つの商品で、簡単に表わしている。なぜなら、ただ一つの商品で表わしているからであり、かつ(2)統一的に表わしている。なぜなら、同じ商品で表わしているからである。諸商品の価値形態は、簡単、かつ共同的であり、それゆえ一般的である。」

 マルクスは、まず第Ⅲ形態の特徴を挙げています。それは諸商品の価値を一つの商品で表わしているので、簡単かつ統一的な価値表現となった、としています。次にこの第Ⅲ形態を以前の第Ⅰ、第Ⅱ形態とどのように違うかを述べます。
(112-5)「形態Ⅰ及び形態Ⅱは、どちらも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値または商品体とは区別されたものとして表現したにすぎなかった。」
 商品Aの価値を、他の一つの商品で表わしたのが第Ⅰ形態、その他の商品が個々ばらばらに表わしたのが第Ⅱ形態でした。そのどちらも、一つの商品の価値を他の商品で表現する形態でした。相対的価値形態にあるのは両方とも、。一つの商品だったのでした。
 さらにこれら以前の形態が、商品交換の歴史的な発展段階において、どのように現われたかを述べています。
(*以下、本文では、1着の上着と20エレのリンネルが、第Ⅰ形態、第二形態を考察した時の表現とは逆になっていますので注意して下さい。前には20エレのリンネル=1着の上着でした。)
(112-8)「第一の形態、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄、などのような価値等式を示した。上着価値はリンネルに等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というように表現されるが、リンネルに等しいもの、および鉄に等しいものという上着および茶のこの価値表現は、リンエルと鉄が異なっているように、異なっている。この形態が実際に現われるのは、明らかに、ただ、労働生産物が偶然的なときおり行なわれる交換によって商品に転化されるそもそもの始まりにおいてである。」
 はるか昔の共同体内部では、労働生産物の交換が行なわれず、したがって生産物は商品ではありませんでした。その社会で労働生産物が商品として交換されるのは、共同体と、その他の共同体との間で、余剰生産物が発生した際に行なわれたに過ぎませんでした。ですから、「偶然的」で「ときおり」なのであり「そもそもの始まり」なのです。
(112-14)「第二の形態は、第一の形態より完全に、一商品の価値をその商品自体の使用価値から区別する。というのも、たとえば上着の価値は、いまや、ありとあらゆる形態で、すなわち、リンネルに等しいもの等などとして、つまり、上着に等しいものでないだけで他のあらゆるものに等しいものとして、上着の自然形態に相対するからである。他面、ここでは、諸商品の共通な価値表現は、すべて排除されている。というのは、それぞれの商品の価値表現において、いまや他のあらゆる商品は、ただ等価物の形態でのみ現われるからである。展開された価値形態が、はじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜が、もはや例外的にではなくすでに慣習的に、他のさまざまな商品と交換されるときである。
 第Ⅱ形態では、まず商品すべてが価値表現に参加しているため、第Ⅰ形態よりも完全に商品Aの価値を、その使用価値から区別します。しかしながら、商品A以外の商品は等価形態として、個々ばらばらに商品Aの価値を表現しているため、どの商品にも共通な価値表現にはなっていません。
 以下は私の疑問です。下線部分は、良く意味が掴めません。文章の流れから言うと、第Ⅱ形態を考察対象にしており、「家畜」が相対的価値形態にあるものと思われますが、「他のさまざまな商品と交換されるとき」とありますので、価値形態の議論から離れてしまっているように見えるのです。文章そのままに読めば「家畜」が等価形態のように読めます。第Ⅰ形態の時にも述べたのですが、価値形態論を理解するうえで肝心なことに、商品同士が=で結ばれるとき、回り道の論理で価値が浮かび上がるのであって、交換を前提にはしていない、ということです。交換された途端、価値形態の両極は消失すると考えるからです。マルクス自身、等価形態を語るとき、左辺の商品(相対的価値形態)に対する「交換可能性」としています。
(2月14日、ここまで)
(113-6)「新しく得られた形態は、商品世界の諸価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうしてすべての商品の価値を、それらの商品のリンネルとの同等性によって表わす。リンネルに等しいものとして、どの商品の価値も、いまや、その商品自身の使用価値から区別されているだけでなく、およそ使用価値というものから区別されており、まさにそのことによって、その商品とすべての商品に共通なものとして、表現されている、だから、この形態がはじめて現実的に諸商品を互いに価値として関連させ、言い換えれば、諸商品を互いに交換価値として現象させるのである。」
 リンネルを商品世界唯一の等価形態とすることにより、リンネル以外の商品価値を表わします。またこのことにより、リンネルを除いた諸商品の価値が、完全にそれらの使用価値から分離されて表現されます。こうして諸商品は互いに交換価値として現象し、互いに関連することが出来ます。
(113-13)「前の二つの形態は、商品の価値を、種類を異にするただ一つの商品によってであれ、その商品とは異なる一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分自身に一つの価値形態を与えることは、いわば個々の商品の私事であり、個々の商品は他の諸商品の関与なしにそれをなしとげる。他の商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演じる。一商品が一般的価値形態を獲得するのは、同時に他のすべての商品がそれらの価値を同じ等価物で表現するからにほかならず、そして、新しく登場するどの商品種類もこれにならわなければならないのである。」
 第Ⅰ形態の偶然的な性格、第Ⅱ形態のそれぞれ特殊な価値等式の列は、どちらも各々の商品が出会うときに現われます。つまり私事です。これに対し、第Ⅲ形態は、労働生産物の交換が社会の隅々にまで広がったことを背景としています。一般的な等価形態を担う商品は、他の商品から排除されてその役割を担うので、新たに商品世界に加わる商品も、この一つの商品で自己の価値を表わす、ということを受け入れなければならないのです。
(114-6)「リンネルに等しいものという形態で、いまやすべての商品が質的に等しいもの、すなわち価値一般として現われるだけでなく、同時に、量的に比較されうる価値の大きさとしても現われる。」
 ここでの考察は言うまでもないことですが、リンネルは唯一の等価形態にあります。そのことにより、他のすべての商品が価値一般として現われ、商品同士の量的な大きさも比較出来るようになります。
(2月15日 ここまで)


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u-ko

お久しぶりです。
今年からブログを復活されていたのですね。
昨年、何度か覗いてみたのですが、更新されないのであきらめていました。
私の方の講座は選挙で1回流れ、2月10日に修了式となりました。
過去最高の修了率ということでしたが、恥ずかしながら私に限って言えば、講義を聴いただけという状態です。
これから自己学習で読了したいと思っています。

by u-ko (2013-02-22 22:12) 

メタボ親父

コメント有難うございます。
講義を聞いただけ、というなら、こちらもあまり変わりません。このブログから一時離れてしまったのは、「おれは一体何を書いているんだろう??」という幻滅があったことと、他のネットツール、TwitterやFacebookにも投稿し始めた為でした。今度はそちらがおろそかになっています。
資本論は一度に理解しようとしても無駄! 但し、いつも食らいついていることと思い定め、再開した次第です。
今日中にアップしようと思っていますが、映画の紹介です。フード・インクと言って2008年のアメリカのドキュメンタリーです。TPP、資本論と絡めて下書きは殆ど済んでいます。今後ともよろしくお願いします。
by メタボ親父 (2013-03-07 12:45) 

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