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1月30日 資本論講座他 [資本論番外編]

カール・マルクスの資本論は、第一部資本の生産過程、第二部資本の流通過程、第三部資本主義的生産の総過程という構成になっています。ところでこの第一部、第二部という言い方の他に、第一巻、第二巻という言い方があります。新日本出版の13分冊では両方使われています。どちらが正しいのでしょうね。いつも迷ってしまいます。

ところで今年の講座の先生は、現在、鶴岡工業高等専門学校特任教授の山内清さんです。この方の経歴が面白い、東京教育大学文学部国語国文学科を卒業し、神奈川県立工業高校の国語教諭を努めたあと、東京大学経済学部経済学科を卒業後、同大学院に進み、経済学研究科博士過程を終了しておられます。紫式部の源氏物語を読破した後、経済学に進んだ、と言うことですが、ちょっと変り種かも。

加えて資本論は毎日45分づつ読み、5ヶ月で第一部を読み終えたとの事。今年私が第一部をもう一度受講しようと考えたのは、講師の先生が変わると、又違った視点で資本論を学べるのではないかと考えたからです。先日第一回講座に出席して、それは正解だったと思いました。先生は序文は飛ばして、簡単な序の後、いきなり本文に進みました。 第一章、第一節をパラグラフ毎に丁寧に読み、説明を加えていきます。先生の読み方そのままのようです。次回は第一章を終える予定ですが、本当に終えられるのか、という丁寧さです。

それはさておき、私も既に何回も読んだ第一章、商品をまた読み直しています。今日まで3日がかりで、第三節の価値形態論の第Ⅱ形態まで読み終えました。予習はこの丁寧に読む事を今後心がけていきたいと考えています。


9月8日 宮川彰先生の講義を学んできました。 [資本論番外編]

 本来なら、中川先生の資本論第一部~第三部を概観する講座だったのですが、わけあって中止に!! そこで急遽紹介された宮川彰先生の講義、第一章第4節 商品の物神的性質とその秘密を受講してきました。それも資本論第一版と現行の第四版の比較をしながらの講義でした。

 私の読解が、まだ第3節の途中ですが、この山を越えた次に現われる第4節の、難しく険しい山越えに、ずっと思い悩んできました。しかし思わぬ収穫をえることが出来、今、気持ちもかるくなっています。

 それにしても初版の第一章 商品は4つの節に分かれていないのです。ビックリしました。宮川先生から、マルクスがどのように手を加えたか詳細な説明がありました。多少のノートを取っております。価値形態論と平行して書いていこうと思います。

 中川先生の講座の方は、16日の日曜日、第五編、第14章~第16章の予定です。一ヶ月達つのは本当に早い! その予習もしなければなりません。


6月14日 資本論初心者は一文につまづく! [資本論番外編]

 今日は午後から、世田谷山友会のホームページを更新していました。大分間が開いてしまったので、山行一覧をまとめるのは大変でした。
 先日書いたように総会を終えましたが、今年はまた一段と、会は発展しそうです。積極的な山行が今年も出てきています。但し、現在会員の平均年齢は50代前半、10年後を見据えると、若い方に(40代でも若いのです)入って貰いたいものです。

 さて一仕事終えたあとで、資本論番外編を書きます。

 資本論初心者の私にとって、マルクスの文章一文、一文は、それを理解しようと苦しみ、つまずきつつ進まざるを得ない、というのが実状です。勿論、理解し易い箇所と共に。マルクス一流のユーモアや、皮肉に満ちた注釈を楽しむ、ということもあるので続けられるのですが。
 ところが、どうにもわからず、時間をかけて考えさせられる文章も多いのです。今日はそんな話題を書いてみます。

 現在、資本論読解の続きを書こうと、b価値形態の量的規定性の次、3の等価形態を読み進めている所です。そこで出会ったのが、次の文章です。
新日本出版社版、95頁16行目「この比率は、リンネルの価値の大きさが与えられているのだから、上着の価値の大きさで決まる。」
 この文章を読んで、私は「えっ! 与えられているとはどういう事?」と、はたと立ち止まってしまったのでした。比率というからには、リンネル(相対的価値形態)と上着(等価形態)の価値量の比較であり、それはそれら商品毎の単位で表れるはずです。だからリンネル(相対的価値形態)が、あたかも上着(等価形態)に対し、優位性をもって、その価値が与えられている。というのはおかしい、と思ったのです。
 この文章は、3 等価形態に出てくると先に述べました。ここでマルクスはそれまでの考察を簡単に振り返った後、次のような文章で、この項を起こしています。
(95ー13)「ある一種類の商品、たとえば上着が、別の種類の商品、たとえばリンネルの等価物として役立ち、、それゆえ、上着が、リンネルと直接交換されうる形態にあるという属性を受け取るとしても、それによって、上着とリンネルが交換されうる比率が与えられるわけでは決してない。」
として先の問題の文章に続いています。その後、この「与えられている」をめぐって、色々考えることになりました。ドイツ語原文はどうなっているのだろうとは思いましたが、ドイツ語は分かりません。代わりに英訳はどうか、と思いネット検索して見たところ、ありました。次の通り。
 The value of the linen being given in magnitude, that proportion depends on the value of the coat.
 見られる通り、英訳も’being given in magnitude'ですから、「大きさは与えられている」でした。又、宮川實先生訳、宮川彰先生監修の「学習判資本論」では、驚いたことに、「この比率は、リンネルの価値が与えられている場合には、」になっているではないですか?? この方が、確かに私の疑問に答えてくれるとは思いました。しかし、これでは私の疑問は簡単には収まりません。その後も、この文章の理解を巡って試行錯誤が続きました。途中経過はすっかり忘れてしまいましたが、現在では次のような理解に達する事が出来ました。
 つまり、このA簡単な価値形態で述べられてきた、その前提、諸商品は自分の価値を表現したい衝動をもって、お互いに対峙している状態にあります。運良く’等価形態’を見いだして、自らを’相対的価値形態’とすることが出来た商品は、当然、使用価値としての単位(エレ等)と共に、抽象的人間労働としての価値の凝固物としてあること、すなわち初めから「価値は与えられている」のだ、ということだったのです。

 気付いてみれば、簡単なことでした。おそらくマルクスも、初心者がつまづくとは全く思わず、すらすらと書いたものと思います。日本語訳としては新日本出版社版が、正しいと思います。しかしもう一方で学習版資本論の訳も、宮川先生は「ここでつまづく」と思われたのでしょうか、細かい所までの心遣いを感じた次第です。

 資本論は難しいと言われます。それは論理を追うことの難しさと共に、読み方を身につけるまでの難しさがあるように思います。マルクスが一生をかけて彫琢した、その文章を味わえるようになるまで、疑問を与えられることも楽しみの一部にしたいものです。

 マルクスは言っているかも知れません。「学問の道に大道はないけれど、’登れるかも知れないよ?’」と。


4月17日 単純な姿態で捉えられた商品生産、流通関係の概念図 [資本論番外編]

 以前、紹介することを予告した図がこれです。
スキャン0001.jpg
 記号の説明です。
 A~D:単純な姿態で捉えられた商品生産者(商品生産の当事者)
 W1~W5:生産された商品(数字の違いは使用価値の違いを指します)
 G:貨幣(Geld、ドイツ語)

 また、この場合の商品生産者とは、a.生産手段(労働用具+労働対象)の所有者であること。b.「自然発生的な社会
 的分業」の諸分枝を担う商品生産の当事者であること。c.(これが重要ですが)商品の生産を「自己労働」によって
 (単純な独立した小生産者として)行うか、それとも「他人労働」(資本ー賃労働関係のもとでの賃労働)によって行
 うか、は度外視(捨象)して、全商品は、単に「相互に独立した・一定量の私的労働」によって生産されているものと
 想定→この商品生産者は、社会全体が必要とする労働(社会的総労働)の一部を、生産過程で、相互に独立して、
 直接的には「私的労働」として行なっている者、と想定する。 

  これは、第1章、商品から、第2章、交換過程まで、この概念図を念頭におきながら資本論を読むと良いでしょう。
 私も初めて資本論を読み始めたころ、労働者も資本家も登場しないことに面食らったものです。登場人物らしいのは商品生産者しかいません。これは労働者を指しているのか、資本家を指しているのか考え込んでしまいました。しばらく読むうちに、マルクスは現実の資本主義社会ではなく、それから具体的な要素を捨象した社会を、議論の前提においているのではないかと思うようになりました。
 今回、資本論講座に出席し、中川先生のレジュメの中に、この図が出ていて、説明を受けてなるほどと思った次第です。また、つい二三日前ですが、私の本棚から、何時手に入れたのかわからない服部文男先生の1997年6月発行の講義要綱が出てきたのですが、この中にも同様な図が載っていました。労働者教育に携わる先生方の間で、かなり前から利用されているのでしょう。

 でも、現在の私の体験からすれば、資本論読解の助けにはなりますが、あくまで参考です。 本筋はやはり本文を何度も何度も読み返さなければなりません。

 さて本筋の資本論読解は、価値形態論を書いているところです。頭をかかえながらも、ようやく理解に達しそうです。
 乞うご期待!

 


中川弘先生の資本論講座 [資本論番外編]

 この1月から東京学習会議主催の資本論講座が、講師に元福島大学副学長の中川弘先生を迎えて開かれています。既に4回の講座で第一編「商品と貨幣」を終了し、5回目は第二編が始まる予定です。当初、分かり易いと評判だった講座も、前回の感想では、皆苦戦しているようです。「わからないところが、わからない」と。

 そこで今の私としては、大変であってももう一度、原書と講座のレジュメを始めから読み返すこと、今後の読み方としても、講義予定の予習・復習をすることと共に、取り組んでいる部分と、その前の部分の脈絡を確認していくことが大切と思われます。

資本論講座レジュメ集.jpg
これが中川先生が準備してくれた講義レジュメ集ですが、第一編までの4回分です。本文は全74頁。
他に講義の度に講義資料・追録が渡され、質問に対する答えや、用語解説、講義の補足などが記載されます。
先生の並々ならぬ意気込みが伺えます。

 そこで、この番外編では講義レジュメ集に沿って書いてみます。
 まずは資本論の研究対象と研究目的の再確認です。それは資本論第一版の序文にあります。すなわち「私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である」と言うことです。ここで確認しなければならないことは、商業資本や高利貸し資本が存在した前近代(封建性)ではなく、近代的な産業資本が生まれ、商品生産が全面的に行われ、数千、数万、数億の商品交換が日常的に行われる資本主義社会を研究対象にしていることです。前近代の商業資本や高利貸し資本は現物経済に寄生する資本でしかなく、社会を覆い尽くすことは出来ませんでした。ここにこそ、資本論冒頭に「商品」分析をおいた意義があるものと思います。
 次に研究目的ですが、これも第一版序文にあります。「近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である」とマルクスは述べています。第一章「商品」でも「運動法則」を導き出そうとしているように読めます。商品交換の背後にある使用価値と価値を導き、多様な側面を微に入り細に入り説明して、ついには商品交換という運動に論理的な根拠を与えています。これは又私の雑学趣味を呼び起こします。鳥の羽根はご存知のように、湾曲しています。そしてその羽根を構成する一枚一枚の羽もそのように湾曲しているのです。一枚の羽では鳥は飛べませんが、それが何枚も集まった羽根で鳥は飛べるのです。「資本論の目的」は、感性的には何の変哲もない商品とその生産の中に隠されている、ということでしょう。

 ですから「なにごとも始めが難しい」のですが、私は今まで述べてきたこと、つまり講座で学んだことを今後も腹に据えておけば、乗り越えられると思っています。

 今回の番外編の最後ですが、講座が資本論の新書版を利用しているので、私もそれに従います。 又今回はレジュメの表紙を紹介しましたが、実は第一編、商品と貨幣の理解にとって非常に役に立つ図を中川先生が作ってくれています。番外編の次回で画像で紹介しようと思います。

 資本論本文の読解は、現在ノートパソコンで書いているところです。いつも長い文章になっていますが、何回も書き直しをするハメになっています。一両日中にはアップするつもりです。

 


軌道修正 [資本論番外編]

1月29日、第二回の資本論講座を受講してきました。そこで考えた事です。今まで自己流に資本論を読み、また書いてきましたが、薄々感じていた私の欠点をここで修正しようと思います。それは抽象度の高い商品の分析について、専門家の話を聞くことなく書いてきたわけですが、理解のためとはいえ不似合いなたとえ話が多かったと思ったのです。私の雑学的知識を不用意に披露することになっていました。人のために書いているわけではないと言っても、ブログとして公開している以上、私自身が資本論に対する接し方を真面目に見つめ直さなければと、今感じています。マルクスに対する私の尊敬の気持ちは本物なのかと今自問自答しています。

マルクスは何度も自分の叙述を吟味し、彫琢したことは知られていますが、講座を受講して講師の中川先生の態度にも接し、自分のやり方を恥ずかしく思ったのでした。

今後どのようにこの資本論についての書き方を変えるか、よく見えてはいません。とりあえず講座で学んだ事を中心に書いていこうと思います。 初めからやり直しです。


資本論を読む上で 番外編その2 [資本論番外編]

 今、悪戦苦闘して第一章第二節の労働の二重性について書いていることろです。ですがまた寄り道する気になってしまいました。第一節のときに冒頭の商品は「歴史的な商品」か「論理的な商品」かという戦前の論争があったことを紹介しました。このとき私は「論理的な商品」だと言いました。

 このことで一度、私が資本論を読む場合のささやかな方法を書いておこうと思ったのです。それでは前置きはこれくらいにして!

 私は歴史の進展について次のようなイメージを持っています。一本の川を想像します。よく「歴史は下って」と言い、現代に近い方が下流に例えられますので、私もそうします。つまり上流は過去になります。ところで川には当然、深さと広がりがあります。

 さて次に川を相当下って、マルクスの生きた19世紀と思しきあたりに、川の断面に合わせた網を川の中におろしてみましょう。コンクリートの堰を作って流れをせき止めてはいけません。この網の底にあたるところを「冒頭の商品」と考えるのです。

 マルクスが序文のどこかで述べているように、川の表面(資本主義時代のイギリス社会をもとに)の様々な現象を研究・分析しました。先人に学びながら。これがいわゆる「下降法」です。そしてマルクスは川底の「商品」にたどり着きます。

そしてようやくマルクスは資本論の執筆を始めたと考えるのです。これが「上向法」です。そして川は常に流れていますから、商品の分析と叙述にもそれが反映します。例えば「生産力の発展」などなど。

網の断面で固定するのではなく、この流れを考慮して書かれているのが資本論と言うわけです。

如何でしょう??

では次こそ本論へ ではでは!


ある物は、価値ではなくとも、使用価値であることがありうる! [資本論番外編]

資本論のレジュメを書いていこうとして次の文章に出会いました。大月書店版55ページ、上記のタイトルに続けて「それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。」

NHKで放送したグレート・サミッツ「ヨセミテの大岩壁に挑戦」をHDDに録画し視聴しましたが、これこそまさにそれです。EL CAPITANの圧倒的な垂壁、その向こうに見える印象的なHARF DOMEの姿が自然の作り出す風景の素晴らしさを教えてくれます。スコットランド出身の博物学者、ジョン・ミュアがここを訪れ、開発のままにおくにはあまりに弱い自然だ、ということに気づきます。その彼の努力によってアメリカ第二の自然公園に指定されました。ヨセミテ国立公園、番組では年間400万人の観光客が訪れているといいます。こうした環境で自然を守るレインジャーの苦労も紹介されていました。

驚いたのは、クライマーのメッカ、第4キャンプ場にあるコロンビア・ボルダーの課題、ミッドナイト・ライトニング(真夜中の雷)を、今は若く可愛い女性がいとも軽々と登っていたことです。これを登るジョン・バーカーの姿が岩と雪72号の表紙を飾ると日本でもフリー・クライミング・ブームが起こりましたが、徐々にかぶってくる壁、最後は上のリップに指だけでぶら下がり、足を固定したあと体を引き上げマントルを返します。落ちたらただでは済まないハイ・ボルダー、30年たち今では伝説でも何でもなく、努力すれば誰でも手に届く課題になったんだな、と思いました。

来年は相方が還暦を迎えます。ヨーロッパ・アルプスに行こうと言っています。相方とはこの夏、久しぶりに剣岳に登ってきました。かつては夏の北鎌尾根、北岳バットレス第4尾根や剣岳八ツ峰Cフェース、 冬の白根三山縦走を共にしました。小柄ながら怪物だった相方も、今は多少の故障をかかえる身、私もメタボ度アップの毎日です。軽いハイキングで山々を眺めるだけだろうと思いますが、ガイドに導かれてガイヤンの岩場を登れればいいなと考えています。

ジョン・バーカーはソロ・クライミングをよくしましたが、今はいない。2009年7月に墜死してしまいました。合掌

Midnight Lightningの動画、登っているのは90年代にクライミング・コンペの女王だったLynn Hillさんです。

 


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